有田焼の始祖の李参平は、文禄・慶長の役で朝鮮から連行された人物だった
近年における佐賀県有田町の有田商工会議所の調査によると、有田焼の絵付け業者が深刻な人材不足に陥っているという。有田焼の始祖は、文禄・慶長の役で朝鮮から連行された李参平である。今回は、参平の経歴などを取り上げることにしよう。
有田焼は佐賀県有田町の特産品であるが、伊万里港(同伊万里市)から各地に輸出されたので、伊万里焼と称される。酒井田柿右衛門の赤絵付や、佐賀藩鍋島氏の保護育成もあって、江戸時代には大いに発展した。
初期の伊万里染付や古伊万里錦手などの色絵の中には優れた作品が多く、現在も高値で取り引きされている。寛永15年(1638)に成立した松江重頼の俳諧論書『毛吹草』には、「今利(伊万里)ノ焼物」と書かれているほどだ。
有田焼の創始者といわれているのが、朝鮮人被虜人の李参平である。参平は朝鮮の忠清道金江の出身、本姓は李氏だった。文禄・慶長の役の際、鍋島直茂の家臣・多久長門守安順によって日本に連行された。
慶長の役で、参平は鍋島氏の道案内をしたともいわれている。なお、多久氏は、肥前国小城郡多久(佐賀県多久市)を本拠としていた武将である。参平の日本人名は「金ケ江三兵衛」というが、それは出身地の金江にちなんで名づけられた。
当初、参平は多久に住んでいたが、のちに鍋島氏の要請に応じ、磁器を製作できる場所を探すべく、鍋島領内を歩き回ったという。そして、有田町の東北部に位置する松浦郡泉山で、白磁鉱(泉山磁石)を発見したのである。
その時期は1610年代のことと指摘されているが、考古学的な発掘調査によると、すでに慶長年間頃から磁器が焼かれていたと指摘されている。したがって、参平が有田焼の創始者であるとは言い難いかもしれないが、発展に貢献したのは事実である。
参平は上白川山に移り住み、天狗谷窯を開くと、日本で初めて白磁を焼いた。参平は約120人もの陶工を率いていたと伝わっており、まさしく有田焼が佐賀藩の「御国産」になった瞬間だった。
参平の功績は鍋島氏から評価され、その子孫は陶器を製造する際の税が免除された。その後、参平のもとには有田焼の製造を希望する者が大勢集まり、天狗谷窯は一大集落になったという。
参平が亡くなったのは、明暦元年(1655)8月である。しかし、その墓は長らく所在不明となっていた。昭和34年(1959)、参平の戒名(月窓浄心居士)を刻んだ墓石が上半分を欠いた状態で、天狗谷窯付近で見つかった。参平の墓石は白川墓地に移され、田町指定史跡となったのである。
有田町の人々は参平を「陶祖」として崇め、陶山神社に「陶祖李参平碑」を建立した。陶山神社では、参平と佐賀藩主の鍋島直茂をともに祭神として祀っている。
参平が日本に連行されたのは不本意だったかもしれないが、有田焼の発展に貢献した人物として、末永く歴史に名を刻んだのである。こうした歴史を持つ有田焼なので、ぜひ担い手が見つかってほしいものである。