『孤独のグルメ』原作者・久住昌之に聞く!自分で絵を描けるのに、あえて「原作者」としてマンガを作る理由
漫画原作者、漫画家、エッセイスト、イラストレーター、作曲家、ミュージシャンといった過剰なほどの肩書きを持つ久住さん。
彼は一体、どんな経歴を経て今に至るのか? そのルーツを探ってみよう。
「人に絵を描かせてマンガを作る」のは、なぜなのか?
久住さんの経歴を語る上で疑問なのが、自分で絵を描けるのに、原作者の立場で他人に絵を描かせてマンガを創作していること。しかも、自作のマンガ以上にその作品をヒットさせているのがすごい。
谷口ジロー氏との共作『孤独のグルメ』の単行本が、フランス・イタリア・スペイン・ドイツ・ブラジル・デンマーク・韓国・中国・台湾・ポーランドで翻訳出版され、世界で広く読まれているのはよく知られていることである。
実は「人に絵を描かせてマンガを作る」のは、デビュー作からのスタイルなのである。
1981年、青林堂の「ガロ」で処女作『夜行』を発表したときは、大学入学と同時に通った美學校で出会った和泉晴紀氏とのコンビ「泉昌之」名義でのデビューだった。
「和泉さんは僕より4つ年上なんだけど、美學校では同期生として出会った人。その和泉さんが美學校を卒業して2年後、マンガ家になろうと一本作品を描いたんです。
青林堂の雑誌『ガロ』の編集長をしていた美學校のOBの南伸坊さんからその話を聞いて、僕は和泉さんの住まいに近いところに住んでいたので読ませてもらったんです。
それが今だから話せるけど、どうにもおもしろくないマンガで(笑)。絵が古い劇画調だったこともあるけど、ストーリーも理屈っぽい話で、入れなくていいギャグが入ってて(笑)。これは、デビューにはきついなーと思いました」
だが、この経験は決して無駄ではなかった。
「その後、ひとつ年上の先輩と飲んだ席で、『幕の内弁当を食べる時順番とか考えない?』と話したら意外に盛りあがってね。好きなおかずを最後まで残すのか? ご飯とおかずのローテーションをどう組むのか? という感じで。
翌日、『昨日の話を、ギャグなしでマジなマンガにしたら、おもしろいと思わない?』って話したら、『絶対おもしろい!』と言ってもらえて。そこで、和泉さんがあの絵で描いたら最高なんじゃないかと思って、イッキに原作を作りました」
「『ガロ』にマンガを持ち込んでデビュー」の思いがけないいきさつ
それは、「マンガ原作者・久住昌之」の誕生の瞬間だった。
自分のアイデアを作画家に伝えるにあたって、久住さんはどのような手段を選んだのだろう?
「B4の画用紙を4枚破ってふたつに折って、16ページ分、作ってね。
1ページ目に『夜行』というタイトルを書いてこっちにくる列車を描いて、コマ割りをしたスペースに絵とフキダシのセリフを書いていきました。
要するに、ドラマや映画の脚本のようにテキストで書くのではなくて、絵コンテで原作を作ったんです。今で言う「ネーム」ですね。
さっそく和泉さんのところに持っていって、見てもらいました。読み終わった和泉さん、パッと顔を上げて『おもしろい! オレが描いたらこのマンガ、絶対ケッサク』って言ったんです」
とはいえ、和泉氏はその原作を作品に仕上げるのに半年を要したという。
「当時、和泉さんは僕の原作を見たとき、『これは100万円だ!』と思ったそうです。100万円というのは、『AKIRA』で有名な大友克洋さんがデビューした双葉社の『漫画アクション』の新人賞の賞金です。そういうふうに一点の曇りもなく確信を持てる和泉さんがいたから、僕はデビューできたんだと思います」
こうして処女作『夜行』の完成原稿をたずさえて、意気揚々と双葉社の門を叩いた泉昌之コンビだったが、それを読んだ編集者の反応は、あまりかんばしいものではなかったという。
「その編集者は、つまんなさそうにその原稿を読んだあと、「なにもありませんね」と一言。そして和泉さんの顔を見て、『君、いくつ?』って聞いたんです。和泉さんが『25歳です』と答えると、『うーん、もうクニへ帰った方がいいんじゃない』と言われちゃって和泉さん、ガックリ肩を落として意気消沈しちゃってね。
帰り道、神楽坂から飯田橋駅に歩く途中も和泉さん、ひとことも言わずに黙っちゃってて、僕は彼を励ますつもりもあって、途中にある店で飲んだんです。それで、『さっきの編集者、つまんねーやつだよ。何もわかってないよな。』って言って笑ったんです。今にして思えば、ここはふたりで本当によかった。僕一人でも立ち直れなかった」
実は久住さん、大学のバンドサークルの人脈を経由して、マンガ家の楳図かずおさんの「まことちゃんバンド」に加わっていて、そのつながりから楳図さんを担当する編集者とも知り合いになっていた。
そのなかに小学館の編集者がいて、『夜行』を読んでもらったところ、「おもしろいねぇ」と言われていたのだ。
「ただ、その編集者にはこう言われました。
『こういう作風のマンガを掲載できる媒体は、今のところ、ウチにはないかもしれない。1年待ってくれたら『ビッグコミックスピリッツ』というマンガ誌が創刊されるので、そこなら載せられるかも』と。
あれだけボロカスに言われて、1年後の判断を待つのは厳しかった。それで青林堂の『ガロ』に持ち込んたんです」
ちなみに、和泉氏とのコンビ名を「泉昌之」になったのは、それがきっかけである。青林堂の社長の長井勝一氏が合作のマンガを嫌っていたので、ひとりで描いたマンガという体にしたのだ。
実は“共作癖”は、4歳のころから始まっていた!
久住さんはその後、実弟で絵本作家の久住卓也さんと組んだマンガユニット「Q.B.B.」名義で『中学生日記』という作品を発表したり、谷口ジローさんとの『孤独のグルメ』、水沢悦子さんとの『花のズボラ飯』、土山しげるさんとの『野武士のグルメ』などなど、自身で絵を描けるにもかかわらず、「原作者」に徹して数々の作品を作り続けている。
なぜ、そのスタイルにこだわるのだろう?
「僕は、自分で絵を描くのは好きなんだけど、人に絵を描いてもらうのも好きなんですよ。
そういうことを言うと『プロデューサーなんですね?』って言われちゃうんだけど、絶対違う。プロデューサーはその人の才能を現代の商業ベースで売れるようコントロールする人です。僕はそんなことはできないし、興味もない。
誰かと共作することで、自分一人ではでき得なかった、僕以上のことができる。自分から始まって見たこともない面白いものができる。それがうれしい。それを組んだ人も面白がってくれる。それだけなんです」
実は、そのような“共作癖”は、幼少期のころから始まっているという。
「4歳くらいのころ、ゴジラのプラモデルを買ってもらって、箱に描かれたゴジラの絵を真似して描こうとしたんです。でも、4歳だからぜんぜん描けるわけないので、母親に『描いて』って頼んだんだよね。
母親は絵の素養なんて、まったくない人だったけど、僕が寝ている間に裁縫に使うチャコペーパーで箱の絵をなぞって、素人ながらそっくりなゴジラの絵をトレースしてくれました。
朝起きたときにその絵を見たときのうれしさは、今でも覚えてます。壁に貼って、ずっと眺めてた」
「三つ子の魂、百まで」という言葉があるが、久住さんの共作活動は66歳になった今後も続いていくに違いない。
※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版もお楽しみください。
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