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【「麒麟がくる」コラム】天正元年以降、明智光秀は畿内を中心にどう動いていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は織田信長のもと、畿内各地に出陣して大いに軍功を挙げた。(提供:アフロ)

■京都支配と明智光秀

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、足利義昭が追放された天正元年(1573)以降、明智光秀がどう動いていたのか詳しく語られていなかった。

 以下、天正元年以降における明智光秀の動向について考えることにしよう。

■畿内に留まった明智光秀

 織田信長配下の武将が命に従って各地に出陣したのに対し、光秀は畿内に留まって活躍していた。もう少し具体的に、光秀の動きを確認しておこう。

 天正2年(1574)1月、大和の松永久秀は信長の配下に加わったが、光秀はその居城である多聞山城(奈良市)に1ヵ月ほど入城していた(その後、細川藤孝と交代)。

 この頃、光秀は信長の命令により、娘2人を細川忠興(藤孝の子)、津田信澄に嫁がせたが、筒井順慶に子を養子として送ることだけは実現しなかった。忠興、信澄、順慶とは、のちの本能寺の変でかかわるのだから、誠に因縁深いことである。

■光秀の活躍

 同年7月、信長は諸将を率いて伊勢長島(三重県桑名市)の一向一揆の討伐に向かったが、光秀は出陣していない。光秀は鳥羽(京都市伏見区)付近に陣を置き、摂津伊丹、中島攻めの後方軍として控えていた(「細川家文書」)。

 信長が光秀に命じたのは大坂本願寺攻めで、その軍勢には藤孝や荒木村重も加わっていた。光秀の戦況報告は詳細なもので、信長大いに感嘆したという。なお、伊勢長島の一向一揆は、織田軍により徹底的に殲滅された。

 この直後、光秀は長島から遣わされた佐久間信盛とともに河内に攻め込み、三好氏の軍勢と戦っている。翌天正3年(1575)4月、高屋城(大阪府羽曳野市)に籠っていた三好康長は、光秀が率いる2000余の兵らから攻撃を受けて、降参せざるを得なくなった(『兼見卿記』)。

 このとき光秀は、新堀城(大阪市住吉区)に籠る十河氏、香西氏も討伐した。結局、康長は松井有閑の斡旋を頼り、信長の軍門に降った。こうして、畿内は徐々に平定されていったのである。

■光秀が畿内に留まった理由

 同年5月の長篠の戦いにも光秀は出陣せず、畿内に留まっていた。伊勢長島にも出陣していないところから、光秀は畿内の担当がほぼ決まったのではないかという指摘がある。

 その後、光秀は越前一向一揆攻め、大坂本願寺攻めに従事したので、むしろ別の軍事行動を任されていたからと言えるかもしれない。役割分担があったのだ。

■丹波攻め前夜

 天正3年(1575)6月、信長は丹波の内藤如安(八木城主)、宇津頼重(宇津城主)を討伐するため、彼らと同じく丹波桑田郡、船井郡に勢力基盤を持つ川勝継氏に朱印状を送った(「記録御用所本古文書」)。

 討伐に際して光秀を出陣させるので、丹波の有力な国衆だった継氏に支援を求めたのである。むろん、信長が協力を求めたのは、継氏だけでなかった。

 同じく信長は、丹波船井郡に勢力基盤を置く小畠左馬助、その後見の小畠助太夫に朱印状を送った(「小畠文書」)。左馬助宛の朱印状では、丹後侵攻の先鋒をするよう申し付けている。

 助太夫宛の朱印状には、丹後平定後に本領に加えて丹波船井郡のうちに2万石を与えると破格の条件を示している。ともに、詳細は光秀が報告すると書かれているので、丹波、丹後攻めは光秀の担当だった。

 光秀の丹波攻めについては、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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