【戦国こぼれ話】国宝の姫路城は赤松氏が築いたのではなく、黒田氏が築城し、豊臣秀吉、池田輝政が改修した
世界文化遺産で国宝の姫路城の武具庫が7月1日から公開されるという。城郭ファンだけでなく、非常に楽しみなはずだ。では、姫路城とはどんな城なのか、改めて考えることにしよう。
■姫路城の築城者は誰?
世界文化遺産で国宝姫路城は、現在の兵庫県姫路市に所在する平城である。姫路城の起源は、南北朝時代にまで遡るという。
元弘元年(1331)に元弘の乱が勃発した際、播磨の赤松円心(のちの播磨国守護)が姫路城の付近に陣を置いたのがはじまりであると伝わる。
貞和2年(1346)、円心の次男・貞範が姫路城を築城した。その後、赤松氏は配下の小寺氏に姫路城を任せたという。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松氏がいったん滅亡すると、山名氏が代わりに播磨国守護になり、姫路城に入ったといわれている。
応仁元年(1467)に応仁・文明の乱が起こると、赤松氏は播磨を奪還。姫路城には、再び小寺氏が入った。天文14年(1545)に小寺氏が御着城(兵庫県姫路市)に移ると、家臣の黒田重隆(官兵衛の祖父)が代わりに姫路城に入る。
以上が南北朝時代から戦国時代に至る姫路城の歴史であるが、おおむね二次史料に書かれたことであり、信が置けない。ただし、姫路城が黒田官兵衛(孝高)の城であったことは、いくつかの一次史料で確認できる。その他の要素を勘案しても、そもそも姫路城を築城したのは、黒田氏とみなすべきだろう。
■秀吉の城になる
天正8年(1580)に羽柴(豊臣)秀吉が播磨を平定すると、姫路城の改修に着手した。櫓や門を設け、堀や石垣を整備し、三層の天守を築いたのである。これにより姫路城は、本格的な城郭へと変貌した。
昭和9年(1934)から約30年にわたり解体修理が行われたとき、大天守の石垣の裏から古い石垣や礎石が見つかり、小天守などが発見された。これが秀吉時代の遺構といわれている。
■池田氏の城へ
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に池田輝政が姫路に入ると、姫路城の本格的な大改修が行われた。工事は翌年から開始され、9年の歳月をかけて完成した。
現在の姫路城の建物は、このときのものが数多く残っており、何よりも国宝や重要文化財の建築物が多い。次に挙げておこう。
①国宝――大小天守4棟、渡櫓4棟。
②重要文化財――櫓16棟、渡櫓11棟、門15棟、塀32棟。
このほか国宝・重要文化財に指定されたものは、折廻櫓、井郭櫓、帯の櫓、帯郭櫓、太鼓櫓、化粧櫓などがある。いかに、優れた城だったかがわかる。
天守閣の特徴は、連立式の大天守、西小天守、乾小天守、東小天守の大小4つで構成されている点だ。大天守は33mの高さを誇り、外観五層、内部七階という非常に規模の大きいもので、現存の天守としては最大規模である。
■代わる城主
その後、姫路城主は次々と変わった。元和3年(1617)に本多忠政が桑名(三重県桑名市)から入封し、池田光政が鳥取(鳥取市)へと移った。
さらに、城主は松平(奥平)、松平(結城)、榊原、松平(結城)、本多、榊原、松平(結城)と交代し、寛延2年(1749)に前橋から酒井忠恭(群馬県前橋市)が入り、以後は酒井家が幕末維新期まで城主を務めたのである。
なお、姫路城が世界文化遺産になったのは、平成4年(1992)のことである。