屈辱的な和睦の条件を飲まされた徳川家康・織田信雄の裏事情とは
今回の「どうする家康」では、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉が和睦を結んだが、屈辱的な和睦の条件を飲まされた家康・信雄の裏事情について考えてみよう。
天正12年(1584)11月13日、秀吉は家康・信雄と和睦を結んだが、家康・信雄にとって非常に屈辱的な条件だった。
『顕如上人貝塚御座所日記』には、もう少し詳しく交渉した事情が記されている。秀吉は北伊勢へ出陣し、桑名城に付城を多数築くと、信雄の懇望によって和睦を結ぶことになったという。
その後、秀吉は信雄と面会し、紙子(紙で作った服)を2つ、金を20枚、北伊勢一揆が捨て置いた兵糧2万5千俵に加え、脇指「国行」と腰物を与えた。
脇指「国行」とは、天正10年(1582)10月、大徳寺で行われた信長の葬儀において、秀吉が「不動国行」を掲げて参列しており、それを指すと考えられる。
ところが、秀吉は家康に対する遺恨があったようだ。秀吉は家康との和睦について否定的だったが、信雄が懇望してきたので許したという。
結果、家康は11月15日に帰国し、秀吉も11月17日に近江国坂本に帰陣した。これをもって、両者の戦いはようやく幕を引いたのである。
つまり、最初に和睦を申し入れたのは信雄であり、その後、家康からも同じ申し入れがあったが、秀吉は思案した。最終的に信雄が懇願してきたので、家康を許すことにしたということになろう。
ただし、秀吉が思案したというのは、ある種のポーズであり、戦いを長引かせたくなかったのが真意ではないだろうか。では、なぜ両者は和睦を結んだのだろうか。
ここまで両者は尾張と伊勢を舞台にして戦ってきた。一見すると、家康・信雄連合軍の戦勝が目立ち、秀吉は劣勢のようにも見える。とはいえ、それは局地戦の勝利であって、秀吉にとって壊滅的な打撃ではなかった。
つまり、両者の戦闘行為の勝敗だけでは、和睦の要因を導き出すのは難しい。次に、問題になるのが駆け引きである。両軍に共通しているのは、遠交近攻策(遠い国と親しく交際を結んでおいて、近い国々を攻め取ること)である。つまり、互いの敵の背後の大名を味方とし、牽制する作戦である。
毛利氏には、信雄・家康連合軍と秀吉から味方になるよう要請があった。しかし、すでに天正10年(1582)6月の段階で秀吉に屈していた毛利氏は、信雄・家康連合軍の要請に応じることはなかった。
また、信雄・家康連合軍は土佐の長宗我部氏に対して、盛んに畿内への侵攻を懇願したが、これも実現しなかった。
実は、家康らが協力を呼び掛けたのは、大名だけではなかった。畿内および近国の寺社勢力をはじめ、一揆や中小領主など多彩な勢力に蜂起を要請した。
ところが、彼らはついに立ち上がることなく、秀吉を動揺させることはなかった。つまり、秀吉の背後を脅かす作戦は、失敗したのである。
一方の秀吉は、越後の上杉氏や北関東の佐竹氏ら諸大名との友好関係を築くことに成功した。彼らは、家康や家康と同盟関係にある北条氏との関係が良くなかった。それゆえ秀吉に与したので、信雄・家康連合軍を牽制しえたのである。
秀吉は局地戦での勝敗よりも、信雄・家康包囲網を形成して優位になったので、より有利な条件で和睦を結ぶことに成功したのである。それが秀吉の作戦だったのだ。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)