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[高校野球・あの夏の記憶]奇跡のバックホーム、その向こう側①

楊順行スポーツライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

 春夏の甲子園で計3回以上決勝に進みながら、一度も日本一になっていないチームが二つある。2011年の夏から12年夏まで、3季連続決勝に進み、いずれも敗れた八戸学院光星(青森)。そして、熊本県立熊本工業高校だ。夏の甲子園で3回決勝に進んだが、いずれも敗れている。

 最初はまだ中等学校野球時代、川上哲治(元巨人)のいた1934年。決勝では、呉港中(広島)のエース・藤村富美男(元阪神)に2安打14三振に抑えられた。続いては、37年の夏。熊工は、エース川上—吉原正喜(元巨人)のバッテリーで決勝に進んだが、中京商(現中京大中京・愛知)の野口二郎(元セネタースなど)を打ちあぐんだ。そして——熊工がもっとも優勝に迫ったのが59年後、96年の夏である。レトリックとしてではなく、あと10センチ。いや、あと5センチで、熊本県勢初の夏の全国制覇が成るはずだった。

 第78回全国高校野球選手権大会、松山商(愛媛)との決勝戦。9回に同点に追いついた熊本工の、10回裏の攻撃だ。1死満塁。三番・本多大介がたたいた初球は、野手の頭を越えそうな角度でライトに上がった。かりにヒットにはならなくても、犠牲フライには十分。テレビ中継のアナウンサーも、声を裏返した。「いったぁ! これは文句なし!!」。熊工ベンチは全員が抱き合い、松商ベンチは“やられた……”とうなだれたのだ、確かに。

 96年は、熊工にとって4年ぶりの夏だった。94年の夏は、熊本市商(現千原台)に初戦負け。熊本県での初戦敗退は、45年ぶりの屈辱だった。95年はエースに松本輝(元ダイエー)、ショートに荒木雅博(元中日)らがいた強力布陣でセンバツに出場したものの、夏は県の準決勝で九州学院に敗退。巻き返しを図るため、8月には山口俊介監督から田中久幸新監督にバトンタッチした。田中監督は、熊本工から芝浦工大を経て、日産自動車で内野手として活躍。主将として73年の都市対抗では準優勝、84年には監督として優勝を経験している。熊工が94年のセンバツに出場したとき、主将で主軸だった田中秀太(元阪神)の父である。

 95年夏、田中新監督を迎えて新チームがスタートしたときのことを、当時の主将だった野田謙信は鮮明に覚えている。

「いきなり“履き物をそろえよう”と。熊工は名門とか古豪とかいわれますが、整理整頓とか、細かいことはあまり気にしないところがあるんです。だから、脱いだシューズがあちこちに散らばっている。まずはそれを、きちんとそろえようというんです。“履き物がそろえば心がそろう、心がそろえば……”とか、大声で復唱させられました。練習方法もそれまでとは一変して、アップ、キャッチボール、トスだけで1時間みっちり。気に入らなければ、キャッチボールはやり直し。基本ができていないチームが、強くなるわけがないということで、とにかく基本は徹底していました」

 ふつう、自分たちの代で監督が代わるのは不安がつきまとう。それまで確保していた定位置が、保証されるわけではないからだ。だが、社会人野球で全国制覇している田中監督の就任を、全員が歓迎した。荒木らがいた1学年上に比べて、力がないのはわかっている。それならば、社会人仕込みの高度な野球を吸収し、チーム力を上げたい。「ただ、練習はむしろ、短くなった気がします」というのはのち青学大、そしてJR九州で05年までプレーした本多だ。

新チームのスタートは秋の熊本で初戦負け

「練習が終わったらすぐに帰っていいぞ、やりたいヤツだけ残ってやれ、という社会人チックな(笑)雰囲気でした。しかも下級生を先に帰らせますから、高校生には新鮮でしたね」。ただし、田中監督が就任してすぐの秋季県大会は鎮西に2対3とまたも初戦負け。無理もない。“履き物をそろえる”ところから始まって1カ月もたたない時期である。それよりもこの敗戦は、ゼロからのスタートとしていっそ好都合だった。

 初戦敗退のチームである。教わることすべてを、まっさらな状態で受け入れた。1点もやれない場面では、ランナーを次に進めない工夫をしよう。けん制を1球、ことによっては3球入れろ。それでリードが半歩でも小さくなれば、フォースアウトの確率も高くなる。さらに打者の心理状態も変わる。とにかく、自分たちが少しでも有利になるように知恵を働かせなさい。ただ投げて打つ田舎の野球ではなく、都会の野球をしなさい——。田中監督が伝える社会人野球の緻密な考え方は、選手たちには目からウロコの思いだった。

 高度な野球をかみ砕いて教え、そして試合では、監督のいったとおりになる。最初は緻密さに戸惑った選手たちも、やがては野球がおもしろくなり、局面局面で出されるサインを予測し、またその意図までくみ取るようになった。それまでなら、ただ機械的にサインに従っていたのが、このケースならこの作戦だ、と自分でも考えるのである。徐々に、野球の質が変わっていった。

 正月には、学校近くの健軍神社への必勝祈願に続き、中央町(現美里町)・釈迦院の参道にある3333段の階段を登った。日本一の石段。頂上を目ざすという決意だ。野田はいう。

「なにしろ秋は初戦負け。長いオフはモチベーションの維持が不安でしたが、緻密な野球を吸収するのがおもしろくて、意識は高かったと思います。春の県大会を迎えるころには、全員が自信を持っていました。決勝で東海大二(現東海大熊本星翔)に負けたのも、エラーによるサヨナラ負け。局面による守備位置などは、だれに言われるまでもなく全員が理解してたし、そこまで戦えるチームになったことで、もう負ける気はしなくなっていました」

 そうして、夏。県大会はエース・園村淳一が夏風邪でダウンしたが、村山幸一の好投と5試合52点の打線の爆発で勝ち上がり、熊工は14回目の出場を決めた。その甲子園で、3度目の決勝まで進んだわけだ。田中監督は、こう語っていた。「初戦、山梨学院大付に勝ったのが大きかった。伊藤君(彰・元ヤクルト)が万全で先発していたら、たぶん負けていた」。事実、組み合わせ抽選のクジを引いた野田などは、大会ナンバーワンといわれる左腕との対戦に「お盆じゃん。負けたら満員の列車で立って帰んのかよ」と、ナインになじられた。

 だがその伊藤が、肩痛で先発を回避。途中から登板したが、古閑伸吾の2ランなどであっさり打ち崩し、投げては園村が8回まで好投を見せた。続く高松商(香川)戦では、初戦の走塁時に頭に送球が当たり、打席ではアゴに死球とさんざんだった攻守のキーマン・坂田光由が気迫で復帰して2安打2打点、さらに園村の1失点完投で快勝した。準々決勝、九州同士で手の内を知っている波佐見(長崎)には8回、本多の決勝タイムリーでシーソーゲームを制すと、準決勝は前橋工(群馬)の好投手・斎藤義典に3回の3安打だけに抑えられながら、競り勝っている。

 この試合が、田中野球の真骨頂だった。4回表の3点は、2死走者なしから。ヒットで出た本多が二盗。まだ中盤で0対0、次は四番の西本洋介でしかも相手は左投手だから、かなり思い切った作戦だ。だが投球はカーブで、本多はセーフとなる。カウントから変化球を読み切った田中監督の、自信のサインだった。そこから西本が四球で歩き、古閑、沢村幸明の連続タイムリーである。さらに1点リードの6回には、相手のスクイズを見事に外し、同点のピンチを防いでいる。試合開始から相手監督の動きを観察していた熊工ベンチの選手たちがサインを見破り、バッテリーに知らせたものだったという。

 相手の松山商。これが25回目となる夏の甲子園にとりわけ強く、優勝4回、準優勝3回の実績から“夏将軍”の異名をとる、熊工以上の名門だ。甲子園まで通算74本塁打の今井康剛を主軸とし、渡部真一郎と2年生の新田浩貴が投の2枚看板。東海大三(現東海大諏訪・長野)には新田が完封し、東海大菅生(西東京)戦は先発した渡部が2ホーマーと投打に活躍し、新野戦は新田、渡部のリレーと、いずれも初出場を相手に余裕の寄り切りである。鹿児島実との準々決勝は今井に待望の甲子園1号が出て、準決勝は福井商の5つのエラーにつけ込んで快勝。伝統の細かい野球は健在で、さらにパワーも加わっていた。

 古豪対決。長い甲子園の歴史で初めての顔合わせは、ちょうど1時にサイレンが鳴った。観衆4万8000。松山商は立ち上がり、制球の安定しない園村を攻める。3安打で1点を先制すると、下位打線が3連続四球を選んで押し出しで2点。いきなり3点を先取した。ショートを守る野田は実は、試合前からイヤな感じだったという。熊本大会から9試合、ずっと勝ってきたじゃんけんで、初めて負けたのだ。それと、打たれてはいけないとマークしていた星加逸人、今井、渡部に初回、いずれもヒットされている。

 だが、強気でなる園村が立ち直った。得意のシンカーを駆使し、松山商に追加点を与えない。2回から9回までは、わずか3安打の好投だ。その間熊工も、必死で松商の先発・新田に食い下がった。2回、境秀之のタイムリーで1点。8回、坂田の犠牲フライで1点。9回裏、熊工の攻撃を迎えたときには2対3というスコアだった。打順は四番から。しかし、西本が三振。代打で出た松村晃も3球三振。松山商はあと一人で27年ぶりの優勝だ。前回の優勝は、三沢(青森)と伝説的な決勝引き分け再試合を演じた69年のことである。(つづく)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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