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お疲れ様でした! 野村祐輔が広陵高時代に残した甲子園史上初の記録とは

楊順行スポーツライター
2007年夏、広陵高時代の野村祐輔(写真:岡沢克郎/アフロ)

 マウンド上の野村祐輔は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。

 2007年夏、第89回全国高校野球選手権の決勝である。広陵は、佐賀北に4点をリードして8回の守りを迎えていた。エース・野村はスライダーが秀逸で、7回までわずか1安打、10三振。広陵にとって、なぜか40年ごとに進出する夏の決勝で、初めての優勝が見えかけていた。だがその8回。1死から2安打と四球2つで1点を献上し、なおも満塁のピンチだ。打席には、三番・副島浩史。この大会すでに2本塁打している強打者だが、この日の野村はそこまでスライダーで2三振と手玉に取っている。

 カウント1—1からの3球目だ。副島がそのスライダーを一閃すると、白球は大きな弧を描いて左翼スタンドに飛び込んだ。まさかまさかの起死回生グランドスラムで、5対4の大逆転。二塁塁上にいた佐賀北の辻尭さえ、「マンガみたいなことが起きた……」と仰天する、あまりに劇的な一打だった。

 野村にとっては、気の毒な面もある。押し出しにつながった四球二つは、いずれもきわどい球がことごとくボールと判定されての結果だ。何球かは、「ストライク」と右手が上がってもおかしくない球で、捕手の小林誠司(現巨人)は、「そんなことをする子じゃない」(広陵・中井哲之監督)のに、悔しまぎれにミットで地面を叩き、判定に対する野村の「エッ?」という表情もテレビカメラがとらえていた。そういう伏線もあり、生命線のスライダーが少しずつ厳しさを欠いたのも無理はなく、副島がとらえた1球がまさにそうだった。

センバツ後にはく奪された背番号1

 野村は広陵に入学した05年からベンチ入りを果たし、2年秋からエース。07年のセンバツでは、成田に延長12回自責0の完投で、唐川侑己(現ロッテ)に投げ勝つと、北陽(現関大北陽)戦では途中ワンポイントでマウンドを譲りながら、8回3分の1を無失点。だが、準々決勝の帝京戦では、初回に満塁弾を浴びるなど6安打を集中されて6失点。以後は8回まで1点と立ち直ったのだが、この炎上に中井監督は、「広島に戻ってからは背番号1をはく奪し、6をつけさせました。一挙6点を忘れんように、というわけです」とお灸をすえた。

 それでもセンバツ後のチームは、どうもピリッとしない。練習中にもかかわらず、中井監督が堪忍袋の緒を切ることもあった。「もうええわ、きょうは練習やめじゃ、好きにせぇ!」とさじを投げ、帰宅するのだ。そんなとき、自宅まで謝罪に行くのはキャプテンの土生翔平(元広島)で、野村や小林もついていった。自宅を訪ねるころには、当の中井監督もなにに腹を立てていたのか曖昧になり、「おう、よう謝りにきたのぉ。せっかくじゃけぇ、メシを食って帰れ」と、夫人の手料理を振る舞う。そのうち選手の間では、「ちょっと怒られるのをガマンすれば、うまい食事ができるぞ」という噂が定着した。

 それはさておき、夏に向けて野村が取り組んだのがスローボールである。センバツの帝京戦でKOされたのは、「力みすぎて球が浮いた」(野村)という自覚があったからだ。一見簡単に投げられそうだが、フォームがしっかりしていないと、スローボールをきっちり投げることはできない。この取り組みはフォームの再現性をも高め、夏の広島大会の野村は、5試合31回3分の2を投げて38三振。5失点と安定していたのは、「スローボールを覚えたのが大きいと思います」と当時、小林は語っていた。

「あれで、投球の幅が広がった。打者が手を出してくれ、1球で打ち取れればすごく楽ですし」というわけだ。

スローボールが効果的だった甲子園

 甲子園では初戦、4年連続決勝進出を目ざす駒大苫小牧に苦しみながら、9回の粘り腰で逆転し、東福岡、聖光学院、今治西とくせ者を寄り切って8強進出。準決勝では、センバツ覇者の常葉菊川(現常葉大菊川)をなんとか1点差で振り切った。常葉菊川打線は、全員が積極的にフルスイングしてくるだけに、スローボールがより効果的だったといえる。で、決勝の相手が佐賀北だ。

 広陵打線は7回、そこまで甲子園で無失点を続けていた佐賀北・久保貴大から2点を追加。4対0とした時点で、「これは正直、優勝できる」(土生主将)。なにしろ、野村が完璧なのだ。7回までわずか1安打、4〜7回は一人の走者も出していない。だが……先述のごとく、押し出しでまず1点を献上。4対1で、打席には副島だ。それでも野村は、それほど動揺したわけではないという。

 もともと、剛速球で三振を取るタイプじゃない。3回戦で敗れた聖光学院の斎藤智也監督が「ストレートとスライダーだけならまだ対応しようがあるけど、あれだけ球種が多彩では……」とお手上げだったように、「ひとつの球種ではなく、すべての球で打ち取るのが理想」(野村)というスタイルだ。だから副島を迎えても、「それまでの打席でスライダーには合ってなかった。満塁だし、引っ掛けさせてゲッツーに取ればいいと思った」。初球、ファウル。2球目は、ちょっとのけぞるくらいの近めのボール——。

 ここで、打席の副島は考えた。いまの球は、踏み込ませないための布石。セオリー通りなら、次は外のスライダーだ。小林の思考回路も、そのセオリーにはまる。「審判の(厳しい)ジャッジもあったし、野村のスライダーは、わかっていても打てないと思っていたので、真ん中に投げてこい、と」。その通りの投球に副島が踏み込んで反応した一打が、逆転満塁弾という夏のクライマックスとなったわけだ。野村はのち、こんなふうに回想している。

「あそこでスライダーを投げたのも、僕の人生。あの舞台を経験できたので、強くなれた。僕も小林も、プロに入る夢を果たせたので、いい経験をさせてもらったのかなと思います」

 進んだ明治大では、六大学史上7人目の30勝300三振を達成し、広島では通算80勝。12年には新人王、16年には最多勝と最高勝率のタイトルも獲得したが、ここ4年ではわずか3勝で、先日現役引退が発表された。明日の最終戦で、先発する予定だとか。

 蛇足ながら……07年、広陵時代の野村はセンバツの帝京戦、そして夏の佐賀北戦と満塁本塁打を配給している。長い高校野球の歴史で、春も夏も満塁本塁打を打たれたのは、この野村たった一人である。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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