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お疲れ様でした! 高校時代は、「松井秀喜になれるか、なれんか」だったT-岡田

楊順行スポーツライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

 この人に目をつけて取材したのは、割合早かったつもりである。今季限りで現役を引退する、オリックスのT-岡田。初めて話したのは、履正社2年の夏前。きっかけは、ある一言だった。

「岡田君は、プロになる、ならんのレベルじゃないね。松井(秀喜)になれるか、なれんか」。履正社と練習試合で対戦したチームの監督から聞いたのだ。北信越地区で、実際に星稜時代の松井を見ている人だから、これは聞き逃せない。旧知の編集者に話すと、「ぜひ取材を」となり、早速アポを取ってくれた。なんでもその際、岡田龍生監督(当時)はこんなふうに笑っていたとか。

「いろんな子を見てきましたけどずば抜けている、私の息子だったらいいんですけど、なんの血縁もない……」

 履正社のグラウンドを訪ねると、木製バットで力強い弾道を描く左打者がいた。岡田貴弘だ。まず、岡田"監督"の話。

「ウチのグラウンド、ライトは97メートルあって、高さ15メートルのネットがあるんですが、あの子に金属で打たせたら危なくてしょうがない。ライトの向こう側は、斜面の下に一般道が走っていますから、もし車に当たったらえらいことや。現に入学してから、3、4本はネットを越えています」

 ボーイズリーグの箕面スカイラーク時代から大阪では、「右の平田、左の岡田」と並び称された。平田とは、同じ2年生ながら、当時大阪桐蔭の四番に座る平田良介(元中日)のことだ。進学にあたっては、ほかの強豪からも誘われたが、家から通える履正社を選択。「入学したとき、岡田先生には”高校で、ホームランを100本打て“といわれたんです」というから、岡田"監督"の岡田に対する評価がわかろうというものだ。

 実際入学してすぐ、5月の香川遠征で尽誠学園を相手に初本塁打を記録すると、「打つ能力では、上級生でも比べものにならへん」(岡田監督)。1年夏から四番にすわり、秋の近畿大会では近大付の鶴直人(元阪神)からバックスクリーン弾。取材した2年の6月上旬まで16本を積み重ねながら、「この間平田とメールでやりとりしたら、アイツは17本でした……」と、ライバルの数字を気にしていた。

飛距離だけは、だれにも負けません

 パワー、技術、センス、どれをとっても超高校級だった。系列の履正科学体育研究所が行う独自の筋力測定では、7〜8種目の測定値の合計が1トンを超えたとかで、そんな選手は過去に一人もいない。

「細かい数字は覚えていませんが、背筋が230キロ、スクワットが220キロ、ベンチプレスが86キロ……だったかな。飛距離だけは、高校生のだれにも負けないと思います」

 左打ちとはいえ、「野球以外の利き手は右」のせいか、インパクトの右手の使い方がやわらかく、そのうえ左手の押し込みが力強い。学校からグラウンド、グラウンドから自宅まで、合計2時間近くかけて自転車で移動していたから、下半身も鍛えられた。

「本人にはいうてるんです、”高校野球レベルじゃなくて、上を見据えた考え方をしなさいよ“。高校より上では金属バットはないんやから、いま木で打てないと上でも打てない、と。いまは、リラックスして打席に立てるんでしょうね、追い込まれてからフォークをバックスクリーンに打ち込んだこともありますよ。これだけの素材ですから、楽しみにしています」

 とは岡田監督である。その、2年夏。大阪大会では、準決勝で大阪桐蔭に敗れたが、岡田は2試合にまたがって5打席連続敬遠されるなど警戒されながら、5試合で5本塁打を量産。これ、高校3年時の清原和博(当時PL学園・元西武など)に並ぶものだが、清原の7試合に対して5試合での数字だから恐ろしい。いつしかついた異名が"浪速のゴジラ"。まさに「松井になれるか、なれんか」というわけだ。

「浪速のゴジラと呼ばれるのは、けっこう、うれしいですね」

 と語ってくれたのは、ふたたび履正社をたずねた3年の夏前だ。この年春の大阪府大会で見た、自身49本目がすごかった。大体大浪商との準決勝。2対2と同点の6回、カーブをうまくとらえた岡田の打球は、広い舞洲ベースボールスタジアムの右中間へ。岡田監督も「あの逆風で……」と、あらためてビックリの一打で、チームもこれをきっかけに快勝した。

「四番というのは、ホームランに限らず、ここという場面で悪い流れをいい流れにする存在だと思います。その意味で、あのホームランはよかったと思う」

 ゆったり、どっしりした構えから、引っ張りだけではなく広角に強く打てるのが魅力だった。苦手なコースもなく、左投手でも苦にしない。おもしろかったのは、岡田同様1年からクリーンアップに抜擢された住川勇貴の話。

「こっちがランナーにいるとき、岡田の打球は速くて怖いんです。きた! と思ったら、よけきれずにケツに当たったことがありました(笑)。ほかにも外野の前に落ちると思ってハーフウェイにいると、打球が定位置まで伸びてタッチアップできなかったり、ときには外野の頭を越えたり。とにかく、見たことのない打球なんです」

 この3年夏。履正社は、大阪の準決勝で大阪桐蔭に敗れ、結局岡田が甲子園の土を踏むことはなかった。ただこの試合、本人は中田翔(中日)からバックスクリーンに3ランを放っているから、全国のファンは"浪速のゴジラ"の甲子園を一目見たかったことだろう。

 プロ入り後は、通算204本塁打。松井になれたかどうかの判断は読者に委ねるとしても、2010年にはホームラン王を獲得するなど、記憶に残るスラッガーだった。お疲れ様でした。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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