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豊臣秀長が長生きしていれば、豊臣政権は長く存続したのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
郡山城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀長が徳川家康に対して病気であることを告げていた。秀長の兄の秀吉は、北条氏の討伐を決意し、もはや止めることができなかった。

 秀長は大変有能な人物であり、秀吉をよく支えてきた。小説などでは、「秀長が長生きすれば、豊臣政権は長く存続したはず」といわれるが、この話がありうることだったのか考えることにしよう。

 秀長が秀吉の弟として誕生したのは、天文9年(1540)のことである。秀吉は農民の子であり、武士身分ではなかった。上級の武将になれば、譜代の家臣が支えてくれた。しかし、秀吉の場合は譜代の家臣がいるわけではなく、頼りになったのが弟の秀長だったのである。

 天正5年(1577)に秀吉が織田信長から中国計略を命じられると、秀長も従って出陣した。秀長は但馬攻めで軍功を挙げ、竹田城(兵庫県朝来市)を任されることになった。3年後に三木城(兵庫県三木市)が落城すると、秀長は但馬、播磨のそれぞれの一部を領有した。

 天正10年(1582)6月に信長が本能寺で横死すると、秀吉が後継者として台頭し、織田信雄・徳川家康を臣従させた。3年後の紀州征伐で、秀長は大いに軍功を挙げ、秀吉から紀伊・和泉に約64万石を与えられた。

 続く四国征伐でも秀長は活躍し、大和も与えられたので計約100万石を領することになった。その地位は、織田信雄、徳川家康に比肩するものだった。秀吉は頼りになる身内ゆえに、どんどん加増したのだろう。

 天正14年(1586)2月、体調を崩した秀長は、有馬温泉でたびたび湯治を行った。秀長は40代半ばであったが、健康に不安があったようである。

 以後も秀長は秀吉を支え続け、九州征伐にも出陣した。しかし、天正18年(1590)1月以降、秀長の体調が極度に悪化したのである。ただ残念ながら、秀長の病名は判然としていない。

 同年10月、甥の秀次(秀吉の養子)は、談山神社(奈良県桜井市)で秀長の病状回復の祈願を行った。ところが、祈願も虚しく、天正19年(1591)1月、秀長は郡山城(奈良県大和郡山市)で病没したのである。享年52。秀長には後継者となる男子がいなかったので、甥の秀保が家督を継承した。

 秀長の能力を高く評価したのが、渡辺世祐氏である。秀長は温厚篤実な性格で、秀吉をよく支えた。実務能力も高かったという。もし秀長がいなければ、秀吉は天下人になれなかったかもしれない。

 また、秀長がもっと長生きすれば、豊臣政権はもっと長く存続したのかもしれないといわれるようになった。こうした秀長像は後世にも受け継がれ、小説などでもそうした人物像で描かれることになった。

 とはいえ、それはあくまで仮定の話にすぎず、断定はできないだろう。ところで、その後の秀吉は朝鮮に出兵し、後継者と目した甥の秀次を自害に追い込んだ。慶長3年(1598)には幼い秀頼を残して、この世を去った。秀吉の死後、豊臣政権が大いに動揺したのは、周知のところである。

 仮に秀長が長生きしたならば、朝鮮への出兵や秀次の死は回避できたかもしれないし、秀吉の死後は秀頼の後見として、力強く支えたであろう。それが実現したならば、もう少しマシな展開になった可能性は、十分にありうるのかもしれない。

主要参考文献

渡辺世祐『豊太閤の私的生活』(創元社、1939年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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