万事休す。小山田信茂に裏切られ、窮地に陥った武田勝頼
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、武田氏滅亡がややスルーだったので、武田勝頼が小山田信茂に裏切られ、窮地に陥った経緯について考えてみよう。
天正10年(1582)2月に高遠城(長野県伊那市)が落城した頃、高島城(同諏訪市)、深志城(同松本市)は織田方に屈した。吉原(静岡県富士市)から北条氏が進撃していたので、上杉景勝が頼りだったが、もう援軍が期待できる状況にはなかった。
同年3月5日、景勝は武田氏への援軍を信濃の牟礼(長野県飯綱町)に遣わすと、本隊の斉藤朝信らの軍勢を持ったという。翌3月6日には、景勝が「長沼(長野市)に援軍を送った」と禰津常安らに報告しているが、実際には派遣されておらず、武田氏は上杉氏からも見放されていた。
同年3月3日、穴山梅雪は徳川家康の軍勢を案内すると、駿河から甲斐へと攻め込み、勝頼の籠る新府城を目指した。この状況に武田方を見限る者が続出し、一門や家老らでさえも早々に逃げ出したので、勝頼の周囲には守備すべき軍勢すら不足するありさまだった。
親族衆の武田信豊は、わずかな従者を引き連れ、小諸城(長野県小諸市)で籠城しようとした。同年3月16日、信豊は城代の下曽根浄喜に叛かれ、母や嫡男とともに自害して果てた。浄喜は信豊の首を信長に持参したが、結局は誅殺されたという。
勝頼は、もはや新府城で籠城するのは困難と判断した。同年3月3日、勝頼は新府城に火を放つと、家臣の小山田信茂を頼り、岩殿城(山梨県大月市)に向かうことにした。実は、岩殿城に行くことを決めるまでは、紆余曲折があったという。
勝頼の嫡男・信勝は、新府城での籠城を主張したが、武田氏の重臣・真田昌幸は岩櫃城(群馬県東吾妻町)へ逃れることを提案したという。しかし、いずれの案も採用されず、勝頼は岩殿城を目指すことになった。
新府城に放火した際、人質を残したままだったので、彼らが焼死する姿はまさしく地獄絵図だったという。勝頼は200余人の者たちと逃げたが、自身の妻、伯母など女性も多数含まれていた。
馬に乗っている者はわずかな人数で、残りの人々は歩いて岩殿城を目指した。女性や子供は山道を歩き慣れず、しかも裸足だったため、血が足に滲んでいた。誠に気の毒としか言いようがない。
こうして勝頼の一行は、ようやく岩殿山城へ近づいた。ところが、勝頼一行には、過酷な現実が待ち構えていた。『信長公記』によると、勝頼ら一行は小山田の館にたどり着いたが、勝頼を見限っていた信茂は受け入れなかったという。
また、『三河物語』では、勝頼が信茂のもとに使者を派遣したが、戻ってこなかったので、信茂が裏切ったことを知ったと記している。勝頼は信茂に裏切られたので、もはやなす術がなかったのである。