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「讒言王」の梶原景時にチクられて、酷い目に遭った3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
牛若丸(のちの源義経)。(提供:アフロ)

 現在でも、学校や職場などで告げ口をされ、酷い目に遭う人はいるだろう。それは鎌倉時代も同じことで、「讒言王」の梶原景時は、頻繁に告げ口をしていた。そのうち、被害に遭った3人の武将を取り上げることにしよう。

◎源義経

 元暦2年(1185)2月10日、源義経は平家のいる屋島へ向かうべく、摂津渡辺に赴いた。そこで、義経は軍議を催すと、景時は逆櫓を取り付け、船がバックできるようにしては、と提案した。これが逆櫓である。

 しかし、義経が「逆櫓を付けると、兵が退きたがる」と反対すると、景時は「進むだけで、引くことを知らない武者は猪武者だ」と反論した。義経は「最初から逃げる準備をしていては、勝てる戦にも勝てない。それならば猪武者で結構」と言い放ち、逆櫓の取り付けを採用しなかった。

 この言い争いが原因となり、逆恨みした景時は源頼朝に讒言し、義経を陥れたという。しかし、近年の研究によると、景時は源範頼に同行しており、義経と行動をともにしていなかったという。したがって、義経と景時の逆櫓論争は、誤りである可能性が高い。

◎畠山重忠

 文治3年(1187)、重忠が地頭を務める沼田御厨(三重県松阪市)で、代官が狼藉に及んだ。代官がやったこととはいえ、重忠は責任を感じていた。重忠は罪を問われたが、のちに頼朝は許した。ところが、重忠は罪を恥じて、一族とともに菅谷館(埼玉県嵐山町)に逼塞した。

 これを知った景時は、「重忠に謀反の意あり」と讒言した。重忠は自害しようと考えたが、下河辺行平の助言もあり、鎌倉で弁解しようとした。

 景時は重忠に謀反の意がない旨の起請文を差し出すよう要求したが、重忠は謀反の意がないと主張し起請文を書かなかった。結局、源頼朝は重忠を信用して許したので、難を逃れたのである。

◎結城朝光

 正治元年(1199)10月、朝光は亡き源頼朝の思い出を語り、「忠臣は二君に仕えずというのだから、出家すべき」だったと述べ、世情が穏やかではない旨の発言をした。これは「源頼家には仕えたくない」とも取れる発言なので、景時は問題視した。

 驚いた朝光が三浦義村に相談すると、これまでの景時の讒言に対して御家人が怒っており、景時討伐の気運が高まった。同年10月、千葉常胤ら御家人66名は、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)に結集し、景時の弾劾状に署名した。弾劾状は大江広元を経て、頼家に差し出された。これが、景時の没落に繋がったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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