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吐血地獄からの生還―6

田中良紹ジャーナリスト

 95年6月、衆議院国会テレビ中継小委員会(坂井隆憲委員長)は、衆参1チャンネルずつの「国会テレビ」を、CS放送かケーブルテレビで開始することを全党一致で決めた。

 事業主体は民間の株式会社だが、衆参両院が4億円程度の経費を支出する他、私の提案である企業が商品宣伝ではなく寄付でスポンサーになる仕組みも採用された。参議院の了承を待つだけとなったが、参議院は「これから勉強する」と言って決定は先延ばしにされた。

 そのうち「参議院の天皇」と呼ばれた村上正邦議員が、国会の敷地内にビルを建て、ビルの屋上にはヘリポート、中には外国からの賓客用の接待施設と「国会テレビ」の中継施設を作る計画を練っているとの噂が流れた。

 その頃、政治改革に積極的に取り組んでいた団体に「民間政治臨調」がある。亀井正夫・住友電工元会長をトップに、経済界、労働界、言論界、国会議員から有志が集まり、小選挙区制の実現に大きな役割を発揮した。

 「民間政治臨調」は国民の見えないところで行われてきた国対政治を批判し、議論する国会を実現するため、私が提案した米国のC―SPAN(シー・スパン)のような「国会テレビ」の実現を後押しした。

 そこでは中曽根元総理のブレーンだった赤沢璋一・日本貿易振興会元理事長が中心となり、経済界の中心組織「経団連」と労働界の中心組織「連合」が共同で出資する株式会社案が検討された。

 与党に献金する財界と野党に献金する労組が、献金の一部を出資に回し国会の議論を国民に見せるテレビを誕生させる構想は、日本にとって画期的な出来事になるかもしれないと私は思った。

 「民間政治臨調」の提案に「連合」の鷲尾悦也会長は賛成した。しかし「経団連」の方は慎重だった。赤沢構想は社長に「経団連」の三好正也事務総長を起用する考えで、本人と前向きに話を進めていたようだが、組織としての「経団連」は慎重姿勢を崩さなかった。

 赤沢と私は動きを見せない参議院の説得も行った。しかしその反応も前向きにならない。ついに赤沢から「君、これは無理だ。日本に国会テレビはできない」と言われた。「やはり無理なのか」と私も思った。米国のケーブルテレビで放送されていた議会専門チャンネルを見て、日本にも同じ仕組みを実現させたいと思ったが、痛感したのは米国と日本との違いばかりである。

 米国はベトナム戦争の敗北から政治改革を始めた。米国がベトナム戦争に介入したのは「トンキン湾事件」というCIAによる自作自演の嘘に議会が騙されたからだ。その反省から「政治の透明化」が優先課題となり、議会は情報公開法を制定し、カメラを議場に設置して、議会映像を無料で公開することにした。

 同じ頃、米国のテレビ界に「多チャンネル放送」のケーブルテレビが始まる。ケーブルテレビは視聴率主義の地上波テレビに対抗するため、視聴率に左右されない「ベーシック・サービス」という仕組みを作り、その中に議会専門チャンネルC―SPANを入れた。

 一方の日本では「政治とカネ」のスキャンダルから政治改革が始まった。そして日本には政権交代のない政治が続いてきたため、政治の透明化より政権交代を可能にする選挙制度改革に力点が置かれた。小選挙区制の導入が最大の課題だった。

 米国では地上波テレビも新聞社も、C―SPANが自分たちの権益を侵すとは考えない。むしろ議会に行かなくとも議会を見ることのできるテレビは自分たちにも都合が良い。新聞とテレビとC―SPANは共存する関係にあった。

 ところが日本では地上波テレビとその背後の新聞社が、自分たちの既得権益を守るためケーブルテレビの実現に反対した。郵政省は既存のテレビ局や大資本しか参入できないBS放送を先行させ、世界のどの国もやっていないBS放送に国民の多数が加入するまで、ケーブルテレビとCS放送という「多チャンネル放送」を認めなかった。

 もう一つ、米国議会は採決によってC―SPANの放送を承認した。全議員の4分の1は放送に反対だったが、誰が反対したかは公表されている。しかし日本では全党一致で「国会テレビ」の放送が決まったので反対はゼロである。にもかかわらずどこからか足を引っ張る動きがある。しかも誰が反対しているのかが分からない。

 政治改革は自民党の若手議員が最も積極的で、55年体制を維持しようとする自民党のベテラン議員と社会党は反対だった。その自民党ベテランと社会党が「国会テレビ」にも反対している感じはするが、表では誰も反対と言わない。私には居心地の悪い思いがあった。

 考えてみれば、「国会テレビ」の実現に最も強く賛成したのは吹田あきら(りっしんべんに日と光)議員である。吹田は田名部匡省、近藤元次、野中広務と共に「郵政4羽鴉」と呼ばれ、放送行政に強い影響力を持つ族議員のリーダーだった。90年には私の案内で吹田、田名部、近藤の3人がC―SPANを訪問し、吹田は「日本でもベンチャー企業がやるべきだ」と言った。

 当選年次で野中は「4羽鴉」の末席だった。しかし91年に衆議院逓信委員長としてNHKの島桂次会長を国会に喚問し、虚偽答弁を行ったと追及して島会長を辞任に追い込んだ。以来、野中は実力ある政治家として郵政省内で最も恐れられる存在になった。

 93年の自民党分裂で、吹田、田名部は小沢一郎と行動を共にして自民党を離党した。近藤がまもなく死亡したため「4羽鴉」は吹田、田名部と野中が対立する構図になる。また野中は小選挙区導入を巡り小沢とも激しく対立した。野中から見れば小沢と行動を共にした吹田が力を入れた「国会テレビ」は、敵を有利にするメディアに見えるのかもしれない。

 野中は細川政権打倒の急先鋒として頭角を現し、村山政権を誕生させて自民党を復権させ、自治大臣から自民党幹事長代理、官房長官、自民党幹事長と権力の中枢を駆け上った。ついには「影の総理」と呼ばれるまでの権力者になる。

 その野中が自民党幹事長代理だった97年、ようやく日本にもCSの「多チャンネル放送」が始まることになった。免許申請の締め切りは9月だが、その直前の7月、衆議院国会テレビ中継小委員長に就任した細田博之議員は、参議院の賛同がなくとも「国会テレビ」の実施を決めた。

 しかしその過程で95年の方針は全面的に撤回された。まず事業主体は何でも良いことになった。国営でも特殊法人でも構わないという。さらに編集をしても解説をつけても良いとされた。私が提案した無編集・無解説というC―SPANの放送哲学は否定され、衆参両院が年間4億円程度の経費を支出する方針も削除された。

 誰がどこで方針を変えたのか私には分からない。私は「国会テレビ」の実現を半ば諦めかけていて、その頃は米議会の情報を日本で販売する事業と、TBSテレビで深夜番組「ワシントン・ウォッチ」を制作し、また米国政治の実態を見学するワシントン・ツアーを主宰していた。

 ワシントンには連邦議会、ホワイトハウス、スミソニアン博物館など観光にふさわしい場所もあるが、C―SPAN、シンクタンク、政治専門の出版社など民主主義政治を支える仕組みも数多く存在する。

 私はツアーの参加者を案内して連邦議会、ホワイトハウス、C―SPANを回り、米国議員との懇談の場を作り、また日本では考えられないが議会の議事録を材料に日刊、週刊、月刊の雑誌を作る出版社を見学させたりした。ツアーには金子仁洋桐蔭横浜大学教授や評論家の大宅映子らが参加し、日本政治のどこに問題があるかを語り合った。

 CS放送の免許申請締め切り直前の8月、私に運命の電話がかかってくる。郵政省の品川萬里放送行政局長から「民間が誰も手を挙げないと国会テレビは国営放送になってしまう。国営放送を認めない立場の郵政省はそれでは困る。免許申請は会社がなくともできる。申請が通ってから会社を作れば良い。民間として免許申請に手を挙げてくれ」と言われた。

 その時、なぜか私の脳裏にC―SPANのブライアン・ラム社長の顔が浮かんだ。彼は海軍の軍人で放送のプロではなかったが、海軍の広報担当としてメディアと接触するうち、メディアが大衆の耳目を引き付けるため、刺激的な言葉や映像を強調し、実態と異なる印象操作を行っていることに気付く。

 そして彼は米国がなぜベトナム戦争の泥沼にはまり込んだのかを考え、あるがままの議会審議を編集せずに国民に公開していれば戦争はやめられたのではないかと思う。議会の映像公開が決まり、米国にケーブルテレビが始まった時、ラムはケーブルテレビ業界のある経営者に自分の思いをぶつけた。

 するとその経営者はラムにポケットマネーを差し出し、他のケーブルテレビ経営者にも呼びかけろと言った。こうしてケーブルテレビ業界が支援するベンチャーのC―SPANが誕生した。編集も解説もしないテレビというのは前代未聞である。当初は誰からも理解されなかったが、次第に民主主義に必要なテレビであることが理解された。

 湾岸戦争では全テレビ局がイラク現地から戦争の実況中継を行い、サダム・フセイン大統領を悪の権化として糾弾した。そのため「油にまみれた水鳥」の映像を戦争のせいであるかのように流し、クウェートの少女が涙ながらにイラク兵の残虐さを訴える放送を行った。それらはすべて嘘だったことが後に分かる。

 イラクに取材に行く資金のないC―SPANは、週刊誌「タイム」の編集会議を毎日生中継した。「タイム」が湾岸戦争をどう報道するかのプロセスを国民に見せたのだ。戦場の映像はなくともこれは立派な戦争報道である。企画したC―SPANも偉いが、企画に応じた「タイム」も偉いと私は思った。

 C―SPANは政治の情報公開だけでなく、メディアの情報公開にも取り組んでいた。ジャーナリズムは権力監視が仕事だと言うが、メディアもまたその内側を国民に見せない権力機構の一部である。メディアの内実を国民に見せることは民主主義にとって重要だ。その役割をC―SPANは果たしていた。

 湾岸戦争で世界的に有名になったのは24時間ぶっ通しでニュースを流すCNNである。しかしその報道には「油にまみれた水鳥」のように意図的な嘘が多い。米国の批評家たちはCNNの戦場報道よりC―SPANの「タイム」の編集会議生中継を高く評価した。

 C―SPANは5千万円の資金でたった4人で放送事業を始めた。最初は政治家の理解を得られず、賛同者が多かったのは下院だけで、放送は下院だけから始まった。しかし無編集・無解説の放送哲学が次第に支持され、上院も放送を認め、スタートから10年後には英国議会が真似するようになった。

 品川放送行政局長の電話で、自分で経営する気のなかった私に気持ちの変化が生まれた。わずか4人で放送を始めたC―SPANのことを思い出し、私は五十嵐三津雄郵政事務次官に相談をしに行った。

 五十嵐次官はかつて「国会テレビは日本のためには良いことだが、私の目の黒いうちは実現してほしくない。実現すれば国会の先生方が自分で法律を作ろうとし始め、優秀な学生が霞が関に来なくなってしまう。だけど田中さんが会社を作るときが来たら相談に乗るよ」と言ってくれた。

 誰と組んで会社を作れば良いかを相談すると、五十嵐次官は「これから放送は変わるんです。これまで郵政省は財務基盤の安定だけを免許の条件にしてきました。しかし多チャンネル時代の放送はコンテンツ(放送内容)がすべてです。コンテンツさえ良ければ資金などなくともできます。大企業と組むのはやめなさい。官僚以上に官僚的ですから」と言った。

 私の頭に「国民がみんなで出資する放送局」というイメージが浮かんだ。しかしそれを衛星放送課長に言うと、「それは困る。名のある大企業が株主にならないと免許は出せない」と言われた。郵政省は「多チャンネル放送」についてまだ認識が固まっていなかった。

 私は米国の例から「ベーシック・サービス」の仕組みさえあれば、資金などなくとも放送はやれると考えた。衛星放送課長に「ベーシック・サービスがなければ私はやりませんよ」と言うと、課長は「それはそうですよ」と答えた。「ベーシック・サービス」の意味が分かっていると思い、私は免許申請に手を挙げる決心をした。

 友人・知人に声をかけ、一口10万円で出資を募り、180人の株主を集めた。そして5百万円だった会社の資本金を2億4千万円にまで増資した。11月に郵政省から委託放送事業の免許が交付され、私は国会近くのビルのワンフロアを借り、小さなスタジオと放送設備を作った。

 TBSに長年勤めて退職した技術の大先輩に入社してもらい、経理担当者と私とアシスタントの4人で、C―SPANのスタート時と同様の体制ができた。翌98年1月からCSの「パーフェクTV」(現在のスカパー!)で放送を開始することになる。チャンネル名を「国会TV」と名付けた。(文中敬称略、つづく)

ジャーナリスト

1969年TBS入社。ドキュメンタリー・ディレクターや放送記者としてロッキード事件、田中角栄、日米摩擦などを取材。90年 米国の政治専門テレビC-SPANの配給権を取得。日本に米議会情報を紹介しながら国会の映像公開を提案。98年CS放送で「国会TV」を開局。07年退職し現在はブログ執筆と政治塾を主宰■オンライン「田中塾」の次回日時:11月24日(日)午後3時から4時半まで。パソコンかスマホでご覧いただけます。世界と日本の政治の動きを講義し、皆様からの質問を受け付けます。参加ご希望の方は https://bit.ly/2WUhRgg までお申し込みください。

「田中良紹のフーテン老人世直し録」

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「フーテン老人は定職を持たず、組織に縛られない自由人。しかし社会の裏表を取材した長い経験があります。世の中には支配する者とされる者とがおり、支配の手段は情報操作による世論誘導です。権力を取材すればするほどメディアは情報操作に操られ、メディアには日々洗脳情報が流れます。その嘘を見抜いてみんなでこの国を学び直す。そこから世直しが始まる。それがフーテン老人の願いで、これはその実録ドキュメントです」

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