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日本代表最多キャップ大野均、引退会見。42歳で「潮時」の思いほぼノーカットで【ラグビー旬な一問一答】

向風見也ラグビーライター
イングランド大会の南アフリカ代表戦でも先発(写真:ロイター/アフロ)

 ラグビー日本代表として歴代最多の98キャップ(代表戦出場数)を誇る大野均が22日、引退会見を開いた。

 福島県郡山市出身。地元の日本大学(日大)工学部でラグビーを始め、競技開始8年目だった2004年に初の日本代表入り。4年に1度のワールドカップには2015年のイングランド大会までに3大会連続で出場した。

 身長192センチ、体重105キロの42歳で、骨惜しみなく戦うロックとして長らく日本ラグビー界を支えた。長らく現役へのこだわりを示していたが、昨年から両膝の痛みに悩まされ、引退を決断した。

 会見は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のためかオンラインでおこなわれた。

 以下、共同会見時の一問一答の一部(編集箇所あり)。

「本日はご多用のなか、(新型)コロナウイルスの影響でウェブ会見ということにはなりましたが、多くの方にお集まりいただき、本当にありがとうございます。今年も多くの素晴らしい選手が引退するなか、私自身に対してこのような場を設けていただき心から感謝しています。

 大学でラグビーを始めた素人同然の私を、東芝ラグビー部は誘っていただき、社員の皆様をはじめ多くの方々に励まされながらここまで頑張ってこられました。

『灰になってもまだ燃える』が私の信条ではありますが、1年前ほどから膝の痛みが出てきて、昨年末まで長い間にわたり別メニューで調整を続けてきましたが回復が見られず、また昨年のワールドカップ(日本大会)での日本代表の躍進、東芝のラグビー部内での若い選手の台頭に触れ、頼もしく感じ、これ以上選手としてやり残したことがないという思いを感じ、引退を決意しました。

 これまでの長い間、東芝ブレイブルーパス(チーム名)、日本代表のプレーを多くの方に応援していただき、頑張ってくることができました。スタジアム内外でかけられる声援のおかげでここまで現役を全うできました。

 今後は私を育てていただいた株式会社東芝、東芝ブレイブルーパスに恩返しができるような活動をしながら、大野均として、これから自分ができること、自分にしかできない道を見つけて、日本ラグビー界に貢献していきたいと思っています。本日はよろしくお願いします」

<テレビ幹事社代表質問>

――98キャップを獲得してきた。印象に残る試合は。

「桜のジャージィを着て出場したすべての試合が印象に残っています。

 もちろん2015年の(ワールドカップイングランド大会での)南アフリカ代表戦もそうですが、2013年6月に東京・秩父宮ラグビー場でウェールズ代表に勝った試合、ですね(23―8)。

 私が初めて行った2004年11月の日本代表のヨーロッパ遠征で100点差(0―98)と負けた相手に対して、その 9年後に秩父宮で勝てるとは思っていませんでした。

 その試合は先発で出て、ノーサイドの瞬間はベンチで見届けたのですけど、ほぼ勝ちを手中に収めた時、本当に涙が出て、グラウンドが見えなかったのを覚えていますね」

――若手、後輩たちに期待すること。

「昨年のワールドカップを経てラグビー選手が注目されているなか、グラウンド内でのパフォーマンスはもちろんグラウンド外でも人として尊敬、信頼される気遣いや行動に努めて欲しいです。そうすることでラガーマンのすばらしさを皆さんに感じてもらえる」

――今後の日本ラグビー界にどう発展して欲しいか。

「昨年のワールドカップ以降、公園などでラグビーボールを使って遊ぶ子どもたちの姿が見受けられるようになりました。その数がもっともっと増えていって欲しいと思いますね。

 そのためには日本代表が強いことが不可欠です。日本代表が世界の強豪に勝つこと。それを見た子どもたちがラグビーの魅力を感じてラグビーを始め、競技人口が増え、それによってまた日本代表が強化される。そういういいスパイラルで発展していって欲しいです。

 また私のように遅くにラグビーを始めても必ずできるポジションがありますので、私のような人間でも気軽にラグビーを始められるような環境を整えていけたらなと思っています」

<新聞幹事社質問>

――引退を決める時に、誰かに相談したか。

「引退を決意するうえで特に迷って誰かに相談したことはありませんね。私自身の身体と向き合った時、あぁ、ここが限界なのかなと感じました」

――一番、感謝を伝えたい人は。

「感謝を伝えたいのは私を育んでくれた両親です。そして地元の後援会の皆さんです。大型チャーターを用意して何度も郡山から東京まで応援に来ていただき、勇気づけられたのを覚えています」

――現在42歳。ここまでプレーできた原動力は。

「ラグビーをプレーすることが好きだった。スタジアム内外でいただくたくさんの声援にも背中を押してもらいました。東芝の先輩である松田努さんの記録(42歳まで現役)を越えられたらと漠然と思っていましたが、あと数か月、足りませんでした」

――これまでのラグビー人生で後悔はなかったというが、あえて挙げるとすれば。

「これまで東芝ブレイブルーパス、日本代表で数多くの試合でプレーさせていただいて。もちろん、試合の直後は『あの時、ああいうプレーをしておけば』とか『あのミスは自分のせいだ』とか考えたことはたくさんありましたけども、いま、ラグビー人生を振り返って、これだけ多くの試合を素晴らしいスタッフ、選手たちと戦うことができて、それを多くのファンに応援していただいた。これに対しては感謝しかありませんね、はい」

<以下、参加者の自由質問>

――今後、日本代表と日本ラグビー界に何が求められるか。

「やはり日本が世界で勝つうえではハードワークというキーワードが欠かせないと思っています。昨年のワールドカップで日本代表があれだけ躍進できたのは、ジェイミー(・ジョセフヘッドコーチ)はハードワークに加え自主性を尊重してくれたからだと聞いています。

 ハードワークと自主性。このふたつはこれからも大事なキーワードになってくると思いますが、あとは昨年のワールドカップで日本代表が4勝したことで、日本代表のみならず日本中の選手が自信というものを感じられたと思います。この日本のラグビーは強いんだという自信を積み重ねられれば、次のフランス大会でもベスト8以上の成績を残せると思っています。

 これからのラグビー界に必要なものとしては…。横のつながりですね。自分のチームだけが強ければ、人気があればいいというのではなくて、チームとチームとの横のつながりを強固にし、日本ラグビー全体としてもっと高みを目指してほしいです」

――ラガーマンとして一番大切にしてきたこと、そこから見えたことは。

「大事にしてきたのは激しさです。自分は大学からラグビーを始めてパスもキックもへたくそななか、チームに何が貢献できるかを考えた時、走ることと激しさでした。また、グラウンドを離れたら、応援してくれるファンを大切にしようと考えていました。

 それによって見えてきたもの…。ラグビー選手は、ラガーマンだな、と言うことです。ラグビーの持つ独特の文化は去年のワールドカップでも感じてもらえたと思うんですが、オールブラックス(ニュージーランド代表)、ヨーロッパの強豪国代表の選手はキャンプ地の人たちにとても優しい。ただ、彼らのプレーは凄く激しいんですね。それがやっぱり、ラグビーの良さ。これからもラグビーの魅力を広めていきたいと思っています」

――ラグビーは自分のどこに合っていたか。

「どうやってこのチームに貢献したいか。それを考えた時にシンプルだったんですね。もしパスもキックも上手だったらそこも選択肢に入り、自分が何のプレーをしようかと迷ってしまって、ここまで長く現役を続けられなかったかもしれないです。あとは自分が所属したチーム――日大工学部、東芝ブレイブルーパス、日本代表、サンウルブズ(国際リーグのスーパーラグビーに日本から参戦。大野は2016年から2季在籍)――が、本当に魅力的なチームで、このチームで勝ちたいと思わせてくれるチームだったので、そこで自分ができることを投げ出そうという思いでやっていました」

――東北への思い。

「2011年に震災があり、いまでも辛い思いをしている人がたくさんいるなか、ラグビーで苦しさをひと時でも忘れられる試合をしたいという思いでずっと続けてきました」

――ワールドカップのパブリックビューイングに参加してくれた時のように、今後も一緒にファンと時間を共有してくれることはありますか。

「もちろん呼んでくれればどこへでも駆けつけたいと思っていますので、よろしくお願いします」

――福島県民にメッセージは。

「昨年も洪水の被害があり、私の母校である日大工学部も浸水しました。ただ福島の人たちは、本当に強い人たちだと思っている。私もその強さを見習ってここまでプレーができた。これからは地元に対し、自分がラグビーを通して何かを還元できたらと思っています」

――引退して、一番したいことは。

「娘が韓流アイドルのファンでして、その娘と新大久保をデートしたいと思っています。週末になると試合、練習があり、日本代表の時は合宿もあり、なかなかゆっくりした時間を取れなかったので、これからはそういう(子どもとの)時間を大事にしたいなと思っています。(長女からのメッセージは)単純に、お疲れさまでしたという言葉だけですね、はい」

――今後について。どうラグビー界に貢献したいか。

「もちろん、まずは東芝ブレイブルーパスが王座奪還するための何かしらのサポートをしたい。また地方に出向いてラグビーを普及させる、人気を上げる活動にも尽力したいと思っています」

――元チームメイトの廣瀬俊朗さんのように俳優へ挑戦することは。

「(笑いながら)オファーがあったら考えさせていただきたいです」

――きょうは5月22日。10年前のこの日は日本代表の一員としてワールドカップニュージーランド大会の最終予選で大会出場を決めた日。当時からいまと比べ、日本代表は何が変わったか。

「10年前はまだ日本のワールドカップがあんなに盛り上がるなんて誰もが想像できなかった時期でしたけど、選手としてはパフォーマンスでアピールするだけという思いでやってきました。

 ですがこの10年間で、(2012年に)エディー(・ジョーンズ)さんが監督(ヘッドコーチ)になって、本当に選手を厳しく鍛えてくれて、2015年の結果があって、その上に2019年の結果が積み重なっている。この10年でいい歩み方をしていると思いますし、2023年のフランス大会に向けて、ギアを落とすことなく突き進んで欲しいと思っています」

――ちなみに、その10年前の試合で印象に残っていることは。

「勝った後にお客さんと一緒に写真を撮ったのですが、いい光景だなと感じました。その雰囲気を覚えています。皆が笑顔だったところですね」

――今後について。指導者への意欲は? 東芝から離れていることは考えられているか。

「コーチについては要請があれば考えたいと思っておりますが、いまのところその予定はありません。

 理想のコーチを挙げろと言われれば、サンウルブズ初代ヘッドコーチのマーク・ハメットです。

 サンウルブズが船出する時、多くの批判的な意見があるなか常に選手をポジティブなマインドにして、彼自身も凄くラグビーを楽しんでいた。その姿勢を見て、彼がサンウルブズの最初のヘッドコーチでよかったと思いました。

(進路について)最終的にはチームと相談している段階です」

――サンウルブズでの経験は。

「スーパーラグビーという舞台は自分がラグビーを始める時は夢の舞台だったので、まさかそこに立てるとは思っていなかった。

 サンウルブズの合宿初日、練習ウェアを支給されるんですけど、腕の部分にスーパーラグビーのロゴが刻んであって、それを自分のホテルの部屋で見て、1人でにやにやしていたのを覚えています。

 間違いなくサンウルブズは、日本ラグビーを強化するうえでの重要なもののひとつだったと感じています」

――府中への思いは。

「ラグビーの街として応援してくれる雰囲気がありがたくて。覚えているのは2015年にワールドカップイングランド大会後に帰国し、けやき通りで東芝、サントリーの選手でパレードをさせていただいた時、4000人もの方が集まってくれた。それは自分が見たかった光景のひとつだったので、感謝の一言に尽きます。街のなかで数多くの方に声をかけていただいて、本当に温かいなと感じたのを覚えています」

――お酒の飲み方は変わるのか。

「もちろん節度を持って楽しい範囲で飲みたいとは思っています」

――大学から始めてもトップになれるというが、いまは高校生がなかなか練習できない。ロックの日本人が代表にならない現状。他競技からの転向して欲しい思いなどはあるか。

「この状況で悔しい思い、切ない思いをしている高校生はたくさんいるとは思うんですけど、そういう思いをしているのは自分だけではない、周りに同じ思いの人がいっぱいいるということを胸に刻んで過ごしてほしいとは思います。

 自分はロックというポジションだったからこそここまで長くできた。ラグビーでは自分みたいにパスが下手でも、キックができなくても、自分の得意なもので勝負できるポジションが必ずあるんですよね。少しでもラグビーに興味を持ったならば、少しでもラグビーに触れてもらいたいなと思っています」

――震災からの復興のさなかにある福島県に住む、若者へのメッセージは。また、今後の福島との関わりは。

「福島県の若い人たちの元気が福島県全体の元気になると思うので、まだまだ復興に関しては道半ばではあると思いますが、自分たちがその主役になるという気概を持って将来に向かって欲しいと思います。

 福島はまだまだラグビーの強豪はなかなか少ない場所ではありますが、時間を見つけて足を運んで、少しでも強化に貢献できたら嬉しいなと思っています」

――グラウンド外の交流、友情についての思い出を。

「自分が日本代表に入って間もないまだ若い時、フランス遠征に行きました。その時は伊藤剛臣さんもプレーされていました。

 日本から移動して宿舎に着くのに24時間もかかって、本当に皆ヘロヘロの状態でチェックインして、部屋割り表を見たら自分は伊藤さんと同じ部屋。皆、疲れているので、もちろん伊藤さんも寝るのかなと思っていたら、ジーパンに着替えて『飲みに行く。お前もついてこい』と言われて。ロビーに降りたら、そこには箕内(拓郎=元日本代表主将)さんもいました。この時にはジャパンではこういうタフな人が活躍できるんだなと再認識させられたというか。タケさん、箕内さん、大久保直弥さん、マンキチ(渡邉泰憲)さんという大先輩に憧れてプレーを続けられたと思っています」

――ワールドカップへは3大会に出場。印象的なシーンは。

「ワールドカップの試合はどの時間もどの試合も印象に残っていますけども、2011年にオールブラックスと戦った時ですね。

 試合後、軽いアフターマッチファンクションがあって、オールブラックスのロッカーへ日本代表を招待してくれて、ビールを飲んで軽食をつまみながら交流してもらったんですけども、その時、ロックのブラッド・ソーン選手が自分のところに来てくれて『ジャージィを交換してくれ』と言われたんです。

 あの時、ジャパンは80点くらい差をつけられて負けたんですけど(7-83)、それでも対戦相手にリスペクトを持ってジャージィを交換して欲しいと言ってきてくれたことに感銘を受けました。

 当時のブラッド・ソーンも結構な年齢(36歳)だったんですけど、『お前、何歳だ』と聞かれ『33歳(当時の年齢)だ』と答えたら、『まだまだキッズだな』と言われたのを覚えています」

――ワールドカップへの思い。

「4年に1度の舞台に立てるのはひと握り。さらにそのメンバーの31人のなかでグラウンドに立てるメンバーは絞られてくる。その1人に選んでもらえたことへの責任感を感じさせてくれた舞台でありました。その大会に3回も出られた。また、どの大会もその国を挙げてのお祭りだったので、その非日常感を楽しませてもらいました」

――「灰になってもまだ燃える」に代わる言葉は。

「いまは思いつかないので、いろいろと調べてこれからの人生に役立つ言葉を見つけたいです」

――あらためて、福島県民へのメッセージを。

「福島の皆さんには本当に長い間応援していただいてありがとうございました。ちょくちょく帰ることがあるので、見かけたら声をかけてください。また近いうちに、福島へ帰れる日を楽しみにしています」

――2018年時点では他クラブ等への移籍を視野に入れていました。最終的には身体と向き合ったことで引退を決意したようですが、どのタイミングで、どう踏ん切りをつけたのかを教えてください。

「いつ、決めたかというのは、先ほども話しましたように、1年ほど前から膝の痛みが慢性化しまして、昨年末からは走ることも難しいほどに悪化してきまして、今年1月からトップリーグが開幕したわけですけど、漠然とですが、今季が最後になるのかなと思いながら過ごしてきました。長期に渡って治療を続けるなか、それでも回復が見られず、コロナのことがあってグラウンドでの練習が難しくなって、個人調整を続けるなか、ふと朝、起きて、あ、今日は走れるかな、と思って外に出て、2、3歩、走ってみたらそれでも膝が痛い。ああ、ここが潮時だろうと、感じました」

――責任を持って身体を張る大野さんの魂を継ぐ選手は誰か。

「身体を張るという部分では、東芝の部分では梶川(喬介)選手、小瀧(尚弘)選手に受け継いでほしいです。彼らは現時点でもチームのために身体を張るプレーを見せてくれている。これが頼もしくて、今回、私のなかでは踏ん切りがついたと言うのはあります。本当に、日本人ロックが日本代表として活躍できるのを楽しみにしています(日本大会の日本代表のロックはすべて海外出身者)」

――最後に。

「本日は長い時間に渡って色々なお話をさせていただきありがとうございました。これからも日本ラグビー界のためにひとりひとりの力をお借りしたく、これからもよろしくお願いします。本日はありがとうございました」

 会見で強調したのは、「ラグビーには自分はパスもキックもへたくそななか、自分の得意なもので勝負できるポジションが必ずある」。高校までプレーした野球では代打要員にとどまったものの、大学で出会ったラグビーでは走って身体をぶつけることに特化できたことで歴史的偉業を成し遂げた。

ラグビーライター

1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年に独立し、おもにラグビーのリポートやコラムを「ラグビーマガジン」「ラグビーリパブリック」「FRIDAY DIGITAL」などに寄稿。ラグビー技術本の構成やトークイベントの企画・司会もおこなう。著書に『ジャパンのために 日本ラグビー9人の肖像』(論創社)『サンウルブズの挑戦 スーパーラグビー――闘う狼たちの記録』(双葉社)。共著に『ラグビー・エクスプレス イングランド経由日本行き』(双葉社)など。

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