徳川家康だけではなかった。天正大地震で一瞬のうちに消滅した内ヶ島氏理と帰雲城
今回の「どうする家康」では、徳川家康が天正大地震で被害を受け、すっかり意気消沈をしていた。実は、被害を受けたのは家康だけでなく、帰雲城主の内ヶ島氏理も同じだったので取り上げることにしよう。
天正13年(1585)11月29日、美濃の内ヶ島氏理は豊臣秀吉から所領を安堵されたことを祝い、帰雲城(岐阜県白川村)で祝宴を催した。喜びもひとしおだったに違いない。ところが、同じ日の午後11時頃、東海・北陸・近畿という広い地域を巨大地震が襲ったのである。
地震の凄まじさは、当時の記録にも書き残されている。『舜旧記』という史料によると、海岸近くの場所については波に覆いつくされ、死人が多数出たという。
地震はその後も断続的に翌年初頭まで続き、京都や奈良では寺社で地震が収まるよう祈禱を行った。これが天正大地震である。当時の建物は木造だったので、ひとたまりもなかったに違いない。どうしようもないので、神仏にすがるよりほかがなかったのである。
むろん、帰雲城も例外ではなく、富山湾から流れる庄川右岸の帰雲山が大崩落を起こした。これにより、帰雲城をはじめ、城主の内ヶ島氏理をはじめとする一族・家臣と住民や牛馬があっという間に地中へと埋没してしまった。
こうして、120年余り続いた内ヶ島氏は、ほんの一瞬で帰雲城とともに消滅したのである。誠に呆気ない幕切れだった。『顕如上人貝塚御座所日記』には、帰雲城の被害状況が詳しく書かれている。その記述を現代語訳で示すと、次のとおりである。
飛騨の帰雲という場所は、内ヶ島という奉公衆が住んでいる場所である。帰雲は地震で山が揺り崩され、山河の多くが削がれてしまった。
内ヶ島氏が住んでいる場所にも洪水が押し寄せ、内ヶ島氏の一族や住人までもが残らず死んでしまった。
たまたま他国に出掛けていた者が四人だけ生き残り、泣く泣く帰雲に戻ったとのことである。ただ、帰雲はことごとく淵になってしまった。
この情報は12月4日に書かれているので、1週間も経たないうちに、今の岐阜から大阪へもたらされたのである。
岐阜県郡上市の長瀧寺に伝わる『長瀧寺荘厳講記録』には、飛騨に地震があったとの記述に続けて「白川、帰雲の二つの山は打ち崩れ、内ヶ島氏理のほか五百人余と牛馬までも一瞬に死んでしまった」と書かれている。後世の編纂物も、ほぼ同じことを伝えている。
家康は大地震に驚いたかもしれないが、命までは奪われなかった。しかし、内ヶ島氏は一瞬のうちに一族や家臣もろとも、地中深く埋まってしまったのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)