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【光る君へ】年下の藤原斉信に出世で先を越され、出仕しなくなった藤原公任の事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
出世稲荷神社。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原公任が出世で藤原斉信に先を越され、出仕を取り止める場面が描かれていた。その辺りの事情について、詳しく取り上げておこう。

 四納言(源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成)は、一条天皇、藤原道長を支えた公家である。藤原斉信は康保4年(967)の生まれで、藤原公任は1歳年上の康保3年(966)の生まれだった。

 斉信の父の為光は、従一位・太政大臣まで昇進した(死後、正一位を贈られた)。公任の父の頼忠は、従一位・太政大臣まで昇進し、関白も歴任した(死後、正一位を贈られた)。

 事件が起きたのは、長保6年(寛弘元年:1004)のことである。斉信は権中納言だったが、従二位に叙せられた。これにより、1歳年長だった公任は、位階の上で斉信に先を越されてしまったのである。

 斉信と公任は、ともに協力して一条天皇と道長を支えていたが、年下の斉信の位階が公任を越えたことは、いたく公任のプライドを傷つけてしまったようだ。この人事が思わぬことを引き起こした。

 不満を抱いた公任は、すぐに出仕を止めてしまった。よほど強いショックを受けたのだろう。同年12月になると、公任は道長に対して、中納言・左衛門督の辞表を提出したのである。

 辞表は公任自身が書いたのではなく、紀斉名、大江以言に執筆を依頼したといわれている。斉名は、漢詩を得意とする名文家だった。以言も和歌の名手として知られ、文章を得意とした。

 しかし、公任は2人の書いた辞表に納得せず、学問で名高い大江匡衡の力を借りた。匡衡は妻の赤染衛門の助力を得て、ようやく辞表を完成させたというエピソードが残っている。

 その後、公任は約7ヵ月にわたって、出仕することがなかった。翌年の寛弘2年(1005)7月、斉信には後れをとったが、公任は従二位に叙せられ、再び出仕するようになったのである。

 今の企業は年功序列がなくなり、成果主義に移行したので、年下の人が先に出世することは珍しくない。しかし、年長者からすれば、あまり気持ちよく思わないだろう。それは平安時代も同じだったようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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