カタルーニャ独立運動に、空っぽのカンプ・ノウ。無力感に包まれたバルセロナの悲しい勝利。
バルセロナの歴史において、最も悲しい勝利だったと言っても差し支えないかもしれない。
バルサの本拠地カンプ・ノウに奇妙な光景が広がっていた。現地時間1日の午後4時15分、リーガエスパニョーラ第7節ラス・パルマス戦。キックオフの瞬間を間近に控え22人の選手が入場してくる。だが彼らをスタンドで迎える者は一人として存在しなかった。
空っぽのカンプ・ノウ。10月1日はカタルーニャ州にとって喜びに満ちた歴史的な日になるはずだった。独立の賛否を問う、住民投票が予定されていたからだ。だがその違法性を訴えるスペイン政府は警察を送り込み、地域の学校をはじめ投票所に指定された場所では地元民と警察の衝突が繰り返された。
事態を重く見たバルサはスペインプロリーグ機構(LFP)に試合延期の必要性を訴えた。しかしLFP側はその要求を受け入れず、キックオフ時に選手が姿を現さなければ、不戦敗と処分による勝ち点3剥奪を命じると通達。勝ち点6ポイントが懸かった状況で、逡巡の末、ジョゼップ・マリア・バルトメウ会長は無観客での試合開催という苦渋の決断を下したのである。
■無観客試合開催への厳しい批判
無観客での試合は行われるべきではなかった。地元メディアは、そうクラブの決断を批判している。スペインで売り上げ部数トップを誇る『マルカ』紙は一面に「このバルサには、誰も拍手を送らない」と記し、地元メディア『スポルト』紙でさえ3-0に終わったラス・パルマス戦の翌日、その試合の結果を一面で報じることをしなかった。これは同紙史上、初めてのことだ。
『ムンド・デポルティボ』では「バルサだけのことを考えた決定」「“クラブ以上の存在”というのは単なるスローガンではないはず」、『アス』では「178カ国に放映された試合だったのに」など、厳しい論調で書き立てられた。
選手の中には、ジェラール・ピケをはじめとして試合開催に反対した者もいたようだが、それは少数派だった。多くの選手がラス・パルマス戦でのプレーを望んでいた。しかし街頭での混乱は収まるところを知らず、州民はまさに血を流して独立を主張する権利を勝ち取ろうとしていた。バルトメウ会長は完全なる板挟みに遭った。
理事会不信任動議に向けた署名活動がようやく終息したタイミングで、カタルーニャの住民投票が行われ、無観客での試合開催という決断は再びソシオ(会員)に不信感を与えるものとなってしまった。そして、その余波は大きかった。カルラス・ビジャルビ副会長は理事会との意見相違を理由に辞任。ダイレクターのジョルディ・モネス氏も同様の理由で辞任した。
■スポーツ的立場と政治的な立場
バルサは警備の安全レベルを確かめる目的で州警察に問い合わせた。だが州警察から報告書は届かなかった。中央警察、治安警備隊からも安全面で警鐘を鳴らす情報はもたらされなかった。そのためバルサ、ラス・パルマス、審判団は試合開催可能だと判断した。
クラブは独立に向けて戦う州民を守るため、そしてカタルーニャの現状を全世界にアピールするため、さらに6ポイントを失う可能性から選手たちを保護するため、無観客試合を断行した。しかし、これは大衆を納得させる決断とはならなかった。
バルサがカンプ・ノウで無観客試合を行うのは、初めてだった。その「前科」といえる試合は、1924-25シーズンまで遡る。1924年11月23日に行われたリーガ第6節、バルセロナが本拠地にエスパニョールを迎えた試合は、大荒れとなった。観客席からコインが大量に投げ込まれ、主審が試合続行を不可能と判断。前半終了時に試合延期が決定され、1925年1月15日に再試合が行われ、両軍は残っていた後半戦を無観客の中で行った(試合はエスパニョールが1-0で勝利)。
ピケはラス・パルマス戦後、感情を抑えられなかった。「カタルーニャ人が悪人なわけじゃない。僕はカタルーニャ、そしてこの土地の人々を誇りに思っている。僕たちが求めているのは、投票をすることだけだ。そこには賛成、反対、白紙票がある。独裁政権の頃にはなかった権利、それが今はあるはずだ」。長く最終ラインを支えてきたカンテラーノは、涙を堪え切れずにそう語った。
バルサはスポーツ的立場と政治的な立場の中間に立とうと試みた。だが必要に駆られた決断は、横着にしか受け取られなかった。大きな痛みを伴う独立に価値はあるのか、その真意が問われている。