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香港映画『十年』を観て 香港人のアイデンティティ、広東語はいつか消滅するのか?

中島恵ジャーナリスト
観光客が多い香港ではさまざまな言語が飛び交うが……(写真:アフロ)

 香港映画『十年』を見た。2016年に香港で大ヒットした作品で、香港映画の権威である香港電影金像奨の最優秀作品賞を受賞。7月22日から東京でも公開されている。コンセプトは「2025年の香港」。近未来を予測して制作された5つのオムニバス映画だ。

 7月1日の香港返還20周年の節目に当たり、前評判がとても高かっただけに期待して出かけた。だが、全体に暗く重苦しい雰囲気が漂っており、明るい場面やユーモアのあるシーンが少なかったことが残念だった。これが今の香港を現わすムードなのかもしれないが、中国共産党への恐怖、不信、猜疑心、抵抗だけが強く押し出され、香港人が本来持っているパワー、エネルギー、持ち前の明るさはあまり表現されていなかったように感じた。

香港人の95%が広東語を話すのに

 5つの映画の中で私が最も印象に残っているのは3話目の『方言』だ。97年の中国返還前まで、香港の公用語は広東語(Cantonese)と英語(English)だったが、返還後は英文と中文。中文はChinese Languageとのみ定義されている。広東語も広い意味では中国語の方言のひとつだ。中国政府は返還後、香港で「両文三語政策」を推進し、中国語(普通話)の普及を図っているが、香港人の母語は今も広東語だ。香港の人口95%が広東語を話し、38%が英語を理解する。彼らにとって中国語は外国語のような存在だ。

 しかし、中国返還後、中国語がじわじわと香港に浸透してきていることは明らかだ。レストランでもホテルでも、アジア系の人を見たら、香港の店員はたいてい英語ではなく「習った中国語」で話しかけてくるようになった。何せ人口800万人弱の香港に5000万人弱もの中国人観光客が押し寄せているのだから、いうまでもない。

中国語ができないと仕事がない

 映画のストーリーは今から10年後、中国語の普及政策によってタクシーの運転手に中国語の試験が課せられるところから始まる。中国人のお客さんがますます増えて、中国語で受け答えができなくては困るからで、試験に合格しないと運転手の仕事を続けられなくなってしまう。

 

 しかし、運転手は生粋の香港人。中国語が苦手なだけでなく、心理的に抵抗がある。だが、乗客は平然と中国語で行き先をいう。乗客だけでなく、小学校に通う自分の息子まで友達と中国語で話す。広東語が母語の香港に住んでいるのに、中国語ができないと仕事がなくなる上、社会から疎外されてしまう……。そんな運転手の非哀を感じさせられる、切ない作品だ。

香港で大評判となった映画『十年』
香港で大評判となった映画『十年』

 言語はその人のアイデンティティそのものだ。それを否定され、母語ではない言語を日常的に話さなければならないストレスとはいかばかりだろうか。映画の中ではどんどん広東語が追いやられ、香港が中国語に浸食されていく様子がやや極端に描かれているが、これは他の4つの映画と異なり、かなり現実に起こりうる話だと感じた。

 というのも、私は10年ほど前、香港で中国語しか話せない運転手のタクシーに乗り、大げんかした記憶がある。香港ではスーツケースを持っていたら、運転手は車を降りてトランクに積んでくれるのが当たり前なのにそれをせず、運転手は中国語で「早く乗れ」とまくしたてた。すでに返還されているとはいえ、10年前に中国語しか話せない運転手など香港で一人も見たことがなかったので驚いた。私が広東語でいう行き先も理解できなかった。香港の地名を中国語でいうと非常に違和感があり、違う地名のような錯覚を起こす。香港の地名は広東語か英語でいうことが当たり前になっているからだ。しかし、運転手は無理やり中国語で押し通した。明らかに大陸出身者だが、この人が香港で運転免許を取得できたことが、当時の私には驚きだった。

香港の地名を中国語でいう違和感

 映画の中ではこの逆パターンで、運転手は香港人、乗客は大陸出身者だ。たとえば乗客が「金鐘」(ジンジョン)と中国語で行き先をいう。広東語では「金鐘」(ガムチョン)だ。英語ではアドミラルティ。香港でジンジョンと中国語でいっても、何のことだかさっぱりわからない。これは同じ漢字なのに発音がまったく異なるという中国語圏だからこそ発生する特有の問題だろう。

 あるときは乗客が行き先の住所を中国語でいった。運転手は中国語も一生懸命習っているのでなんとか理解できたが、発音が悪いので、行き先を音声で入力するナビが運転手の発音を「認識」できない。中国語が母語の乗客がいらついてナビに中国語で入力する場面は、見ていてとてもつらい。

 郷に入っては郷に従え、というが、香港の母語は広東語なので、あとから入ってきた言語に浸食され、もともとそこにいたのに自分たちが中国語に合わせなければならないのは「支配されている感」をより強く意識することだろう。歴史に翻弄された台湾人が日本語、その次に中国語をマスターしなければ生きていけなかった状況とだぶって見える。

 香港で中国語を正式に習っていない中高年以上の人が中国語でスムーズにコミュニケーションを取ることは困難だ。返還後、香港の学校教育には中国語が導入され、若者は中国語を理解できるようになったが、返還時に15歳以上だった人々(2017年の時点で35歳以上)は学校で習っていない確率が高い。

 それでも、飲食店や小売店では中国からの観光客に対応して中国語をマスターし、今もほとんど中国語で応対している。かつては母語の広東語と英語ができれば仕事は問題なかったが、今ではこれに中国語を加え、中国語と英語ができないと香港ではろくな仕事がない。むしろ、私が10年前に出会った運転手のように、今では人口の95%が理解する広東語ができなくても、中国語ができればいい仕事にありつけるかもしれない。それくらい、主要な言語も変わりつつある。

高まる中国の存在感の中で

 10年ほど前まで、韓国に観光に行くと、空港の免税店で話しかけられるのは日本語だった。私を見て日本人だとわかるからで、日本人観光客の存在感が大きかった韓国では、店員も流暢な日本語を話した。だが、今ではそれが全部中国語に取って変わった。日本語ができる店員は少なくなり、中国語か英語で話しかけられる。おそらく中国人観光客が多いタイの免税店などでも同じ現象が起きているだろう。それくらい、中国人の影響力、存在感は大きい。

 今年5月、久しぶりに香港を訪れた。空港から途中まで地下鉄に乗り、そこからホテルまでタクシーに乗り換えた。運転手に広東語でホテル名を告げると、運転手はとてもうれしそうに「日本人でしょう?広東語がわかるのかい?」と声を掛けてくれた。私が昔、香港に住んでいたことを話すと会話が弾み、私の下手くそな広東語をさかんに褒めてくれて、いろいろな話ができた。やはり、香港には広東語がよく似合う。そう感じたひとときだった。

未来予測はたいてい外れる――。そう信じたい。

ジャーナリスト

なかじま・けい ジャーナリスト。著書は最新刊から順に「中国人が日本を買う理由」「いま中国人は中国をこう見る」(日経プレミアシリーズ)、「中国人のお金の使い道」(PHP研究所)、「中国人は見ている。」、「日本の『中国人』社会」、「なぜ中国人は財布を持たないのか」「中国人の誤解 日本人の誤解」、「中国人エリートは日本人をこう見る」(以上、日経プレミア)、「なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?」、「中国人エリートは日本をめざす」(以上、中央公論新社)、「『爆買い』後、彼らはどこに向かうのか」、「中国人富裕層はなぜ『日本の老舗』が好きなのか」(以上、プレジデント社)など多数。主に中国などを取材。

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