オリックス・バファローズの本拠地開幕を前にして、阪急ブレーブスの本拠、西宮球場に思いをはせる
今日3月29日、昨年のパ・リーグチャンピオン、オリックス・バファローズが京セラドーム大阪で本拠地開幕戦を迎える。チームとしては、1997年4月18日にオリックス・ブルーウェーブが当時の本拠、グリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)に凱旋して以来25年ぶりのことになる。この試合、現監督の中嶋聡が8番捕手として、外野守備走塁コーチの田口壮が1番レフトとして名を連ねている。
本拠、京セラドームに関して言えば、2002年3月30日に前年にパ・リーグを制した大阪近鉄バファローズが当時大阪ドームと呼ばれた本拠地に凱旋している。つまり、今シーズンは実に20年ぶりに京セラドームにチャンピオンペナントがはためくこととなる。
本拠地にチャンピオンフラッグがはためくのが当たり前だった「勇者の時代」
複雑な球団史をもつオリックス・バファローズだが、その昔、昭和の時代、その前身球団だった阪急ブレーブスは毎年のようにペナントを本拠に持ち帰っていた。当時、開幕戦は前年のAクラス球団の本拠で実施されていたため、ブレーブスファンにとって、リーグ開幕戦をホーム球場で迎えるのは年中行事のようなものだったのである。
そのブレーブスの本拠、西宮球場はもうない。阪急からオリックスへの球団譲渡、そして神戸への移転という昭和の終わりから平成の初めにかけての変動の中、取り壊され、現在はその跡地にショッピングモールが建てられている。
大阪と神戸を結ぶ阪急電鉄の本線の中間に位置する西宮北口駅は支線との結節点でもあるターミナル駅だ。その昔は、大阪のターミナル駅・梅田駅から神戸行きの電車に乗って15分ほど行くと、南側の車窓に現れる白亜の巨大スタンドがこの駅への到着を知らせてくれた。
昭和の終わり頃、試合日ともなると、電車を降りれば、当時のトップアイドル、早見優の歌うポップな応援歌が流れていた。改札口を出てまっすぐのびる道を進むと、道の左側に並ぶ飲食店から弁当や焼き鳥、たこ焼きなどを買ってくれと声がかかった。それには、ダフ屋と呼ばれるチケットの転売屋の「余ったキップないかあ」の声も混じっていた。パ・リーグ球団の人気がなかった当時、彼らは観客が余らせた招待券をタダ同然の安値で買い取り、それよりも少し高い、だが球団の設定額よりも低い価格でいまだチケットを持たない観客に売って利ザヤを稼いでいたのだ。ダフ屋、余りチケットを売るファン、「割引チケット」を買うファン、三方とも得をする誰にも損はないシステムだったが、本来懐に入れるべき収入を手に入れることができない興行元の球団にとってはたまったものではなかった。
そんな通りを5分も行くと、電車から見えた白亜のスタンドが目に飛び込んできた。
日本初の二層式スタンドを備えた新球場
西宮球場の完成は、日本プロ野球草創期の1937(昭和12)年のことである。プロ野球のペナントレースがスタートした1936年冬に着工し、わずか5か月で完成した。この突貫工事には当時の阪急の総帥、小林一三の鶴の一声があった。
小林は、都市部から郊外に鉄道を敷き、その沿線に住宅街、レジャー施設、百貨店をつくることによって鉄道の需要を喚起するという電鉄会社のビジネスモデルを日本において確立した大立者である。大正デモクラシーの風潮の中、年々人気を高める学生野球を前にプロ野球時代の幕開けを予見した彼は、1923年の関東大震災により経営に行き詰った日本最初のプロ球団、日本運動協会を引き取り、宝塚運動協会として1924年から6年間球団運営を行っている。結局、この球団は、昭和恐慌のあおりを受け、1929(昭和4)年に解散してしまうが、その5年後に読売新聞が開催した日米野球をきっかけに大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が誕生し、1936年に日本初のプロ野球リーグ、日本野球連盟が発足すると、小林はこれに応じて大阪阪急野球協会(阪急軍)を結成して加入。その背景には、当時並行路線を持ち熾烈な乗客獲得争いを繰り広げていた阪神電鉄も球団を立ち上げたという商売敵に対するライバル心があったとされているが、彼の脳裏に、自分こそが「日本プロ野球の父」なのだという強烈な自負心があったことは想像に難くない。
当時プロ野球興行にふさわしい巨大スタンドを兼ねそなえていたのは、高校(当時は中等学校)野球全国大会の開催を意識して1924(大正13)年建設された大阪タイガースを発足させた阪神の甲子園球場くらいしかなかった。東京の神宮球場は、大学野球のもので格下の扱いを受けていた「職業野球」が使えるような場所ではなかった。
小林が日本でのプロ野球リーグ発足の動きを知り、阪急軍の結成を指示したのはアメリカへの視察旅行中のことだった。球団と球場の一体経営を是とした小林は、球団結成とともに沿線での新球場建設を命じたのだが、球団はリーグ発足に間に合ったものの、新球場の建設はなかなか進まなかった。東京では、小林と同じく、球団と球場の一体運営を理想とした日本運動協会の創設者、河野安通志らのグループが後楽園野球倶楽部(イーグルス)を結成。日本野球連盟2年目の1937年春シーズンからリーグに参入するが、小林は建設中の後楽園球場に先んじること4カ月、1937年5月にターミナル駅である西宮北口駅の隣接地に西宮球場を完成させた。当時周囲には水田が広がっており、田園風景に突如として出現した5万5000人収容の日本初の二層式スタンドを備え、内外野天然芝のフィールドをもつ巨大スタジアムは威容を誇ったことだろう。バックネット後方のスタンドに設置された鉄傘は、ライバルである阪神の甲子園球場への強烈な対抗心の表れだった。
以後、西宮球場は日本でも一二を争う球場としてプロ野球の名勝負の舞台となった。プロ野球は太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944(昭和19)年夏季シーズン限りで休止。翌年の終戦後に行われた非公式戦「日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦」4試合の内、2試合がここで開催されている。また、プロ野球にフランチャイズ制度が導入された1948(昭和23)年には、前年にニックネームをブレーブスとした阪急に加え、暫定的にではあるが大陽ロビンスの本拠にもなった。
ブレーブスの終焉とともに終えた役割
しかし、西宮球場は華やかな舞台とはなかなかならなかった。その「主」であったブレーブスがペナントレースの主役になることがなかったためである。閑古鳥の鳴くスタンドを前に電鉄本社はここを競輪場としても利用することを思いつき、1949年以降、外野に人工芝が張られる1978年まで、競輪用のバンクを置いたことによる芝生の傷みの中、外野手たちはプレーせねばならなくなった。
そんな西宮球場が檜舞台に変貌を遂げるのは、1967(昭和42)年の初優勝以降、ブレーブスが常勝軍団となってからのことである。この年以降、リーグ4連覇を果たした1978年までの12シーズンで実に9度の優勝を飾ることになるブレーブスの本拠、西宮球場はプロ野球ファンに日本シリーズの舞台として認知されるようになる。
しかし、ブレーブス最後の優勝となった1984年がこの球場での最後の日本シリーズとなった。この4年後の1988年、名門阪急ブレーブスは昭和時代の終焉と共に、新興企業のオリエントリース(現オリックス)に経営譲渡される。オリックス・ブレーブスは、その後2年西宮球場を本拠とするも、1990(平成2)年シーズン後、ニックネームを「ブルーウェーブ」と変えて神戸に旅立っていった。
主をなくした西宮球場では、「ライバル」の阪神がときおり試合をするようになったが、それも1996年を最後にプロ野球の試合はなくなり、2002年に閉鎖。2005年に解体が完了し、現在は商業施設に生まれ変わっている。
変わりゆく街並みの中に縁を探す
現在西宮北口の駅舎を出ても、そこに野球場があったことに気付くことはない。駅の南からのびる道は拡張され、その先には球場跡周辺の再開発でできたショッピングモールがその威容を誇っている。阪急はその始祖・小林一三が打ち立てたビジネスモデルを忠実に受け継ぎ、ついぞ黒字にならなかったプロ野球の舞台を巨大な消費空間へと変えた。
そんなショッピングモールに、西宮球場の縁(よすが)をしのぶことができる。5階の片隅にある「阪急西宮ギャラリー」がそれだ。阪急電鉄と西宮にまつわる展示をするのが趣旨ではあるのだが、ここには優勝ペナントやユニフォームなど、阪急ブレーブスにまつわる「お宝」の数々が飾られている。なかでも目を引くのが、西宮球場の模型。ホームベース後方にカメラが設置してあり、操作するとそこから臨むフィールドの風景が映し出される。この球場に郷愁を覚える祖父世代と、ブレーブスのことなど全く知らない孫世代が同時に楽しめるこのギャラリーの目玉だ。
ここを出て1階下ると、緑化されたテラスがあるのだが、ここは西宮球場の内野だったところ。来訪者が休憩するベンチが4段連なるスタンドは野球場を意識したものだろうか。その端にはかつてそれがあった場所にホームベースのレリーフが埋め込まれ、案内板が設置されている。
さらにモールの外、南側駐車場横の花壇にはかつて球場正面にあったファンクラブ「ブレーブスこども会」の石碑が移されており、北側の緑地にはそこに西宮球場があったことを示すレリーフが設置されている。
阪急ブレーブスの名がなくなってすでに30年が経過している。その系譜をひくオリックス球団が、かつてパ・リーグの覇を競った「バファローズ」を名乗って、「昭和の大阪城」とうたわれた高度成長期に黄金時代を築いた南海ホークスのホーム、大阪球場からほど近い京セラドームにチャンピオンフラッグを持ち帰ってくることに時の移ろいをどうしても感じてしまう。
「ナニワのチャンピオンチーム」はどんな凱旋試合を見せてくれるのだろうか。
(写真は筆者撮影)