「シリア革命」の戦士たちを取り持つアル=カーイダ
シリア内戦を見ていると、「テロリスト」とは一体何なのかということを常に考えさせられる。
反体制系サイトの「ドゥラル・シャーミーヤ」は29日、シリア南部のダルアー県ムサイフラ町近郊に設置されたシャーム解放委員会の検問所脇で爆弾が仕掛けられた車が爆発し、司令官1人を含む複数のメンバーと民間人数十人が死傷したと伝えた。
国際テロ組織ヌスラ戦線
シャーム解放委員会は、シリアのアル=カーイダと目される組織で、「シャームの民のヌスラ戦線」(以下ヌスラ戦線)の名でも知られる。その後イスラーム国を名乗ることになるイラク・イスラーム国のシリアにおける活動母体として、2012年1月に発足が宣言されたヌスラ戦線は、2013年4にイスラーム国(当時の呼称はイラク・シャーム・イスラーム国(ISIL))との訣別を経験しながらも勢力を維持・拡大、反体制派とともにバッシャール・アサド政権打倒をめざしてきた。
こうしたヌスラ戦線に対して、国連は2013年5月、アル=カーイダの「別名」としてアル=カーイダ制裁委員会リストにその名を追加登録、その後2014年5月には独立組織として登録変更した。
度重なる改称と反体制派との連携
アル=カーイダ総司令部のアイマン・ザワーヒリーに忠誠を誓い続けてきたヌスラ戦線だが、2016年7月、アレッポ市東部街区をめぐるシリア軍との戦いにおいて反体制派との連携を強めるため、アル=カーイダの「承諾」のもとにアル=カーイダとの関係を解消すると発表、シャーム・ファトフ戦線(シャーム征服戦線)に改称した(ただし、アル=カーイダとの関係解消は、2017年11月にザワーヒリーから無効との判断を受けている)。
アレッポ市東部街区がシリア政府の支配下に復帰(2016年12月)すると、シャーム・ファトフ戦線は、バラク・オバマ前米政権の支援を受けてきたヌールッディーン・ザンキー運動などと統合、今日の組織名であるシャーム解放委員会を名乗るようになった。そして、ロシア、イラン、トルコを保証国とする停戦合意(「緊張緩和地帯」にかかる合意)を一貫して拒否し、武力に訴え続けた。
イドリブ県南東部では、ヌールッディーン・ザンキー運動(その後2017年7月にシャーム解放委員会を離反)、「穏健な反体制派」と目されてきたナスル軍、自由イドリブ軍、トルコが後押しするシリア・ムスリム同胞団系のシャーム軍団、アル=カーイダ系のシャーム自由人イスラーム運動、アフラール軍、そして中国新疆ウィグル自治区出身者ならなるトルキスタン・イスラーム党とともに抗戦を続け、反体制派に停戦破棄を呼びかけた。
また、シリア軍による包囲が非難の的になっているダマスカス郊外県東グータ地方では、シャーム自由人イスラーム運動、ラフマーン軍団とともに「彼らが不正を働いた」作戦司令室を結成して戦闘を継続した。同地をめぐっては、シリア政府支配地域への重篤患者の搬出や人道支援物資の配給に向けた停戦協議がロシアの仲介によって続けられ、そのなかでシャーム解放委員会戦闘員(約500人)の退去も争点になっている。だが、シャーム解放委員会は、シリア軍の無差別攻撃を非難し、東グータ地方への残留に固執している。
「シリア革命」を乗っ取って久しい「テロリスト」
シャーム解放委員会に代表されるアル=カーイダ系組織と、「シリア革命」の名のもとに「自由」や「尊厳」の実現をめざしているはずの反体制派が表裏一体であること、シリア軍の攻撃がアル=カーイダ系組織による暴力継続の口実を与えていることは、拙稿において度々指摘してきた。
だが、「ドゥラル・シャーミーヤ」が報じた爆弾攻撃は、アル=カーイダ系組織が「シリア革命」成就に向けた武装闘争を維持するうえで果たしてきたもう一つの役割を再認識させる。
同サイトによると、攻撃が何者によるものなのかは不明(イスラーム国に忠誠を誓うハーリド・ブン・ワリード軍による犯行という見方が有力)だ。だが、標的となった検問所に進駐していたシャーム解放委員会の部隊は、革命軍とスンナ青年部隊の兵力引き離しの任務についていたという。
この二つの武装集団はいずれも「自由シリア軍」諸派に含まれるが、最近になって対立を深め、ダルアー県東部のハルバー村では、戦闘員1人(いずれの武装集団の戦闘員かは不明)が死亡する衝突が発生していた。
両者は29日に和解することで合意したが、これを受けて双方の兵力を引き離すためにムサイフラ町近郊の検問所に進駐したシャーム解放委員会の部隊が爆弾攻撃の標的となったのだ。
事件は、アル=カーイダ系組織が、まとまりを欠き、対立や不和が絶えない反体制派を取り持つ役割さえも担ってきたということを改めて示している。「シリア革命」は、その崇高な理念とは裏腹に、国際社会において「テロリスト」というレッテルを貼られた犯罪集団によって乗っ取られて久しいのだ。