羽生結弦さんの離婚から噴出する“十把一絡げ”の怖さ。一人の芸能記者として思うこと
羽生結弦さんの離婚発表から1週間以上が経ちましたが、今も余波が余波を生み、改めて衝撃の大きさを感じさせられます。
羽生さんがSNSに出したコメントには「許可のない取材や報道」といった言葉があり、そこを起点に“行き過ぎた取材”についても声があがっています。
僕のSNSにも「お前みたいなもんがいるから、こんなことが起こるんだ」「お前も、マスゴミも、みんなまとめて謝れ」といったご意見をいただいています。
無論、今回の件の中心にあるのは羽生さんであり、あらゆることはそこを軸に語られるべきだと思います。
ただ、僕みたいな者にもいろいろな言葉が向けられる中で、一人の芸能記者として感じることを綴っておこうと思います。
それが“十把一絡げのカテゴリー否定”です。
「芸能記者なんて不要」「マスコミ、否、マスゴミは全部悪い」「そういったものは全てなくなればいい」
木を見ずに山ごと焼き払う。そんな考えを何の疑問も持たずに発信する。もしくは、何らかの疑問を持っていたとしても、SNSの匿名性をマントに一歩を踏み出す。そんな領域にこそ、怖さを感じます。
闇雲な悪意の矢は、何の真実も貫かず、不要なモヤモヤばかりを募らせる。こんなことは真摯に羽生さんを応援してらっしゃるファンも、関係者も、誰も望んでいない。そう思います。
ラーメン屋さんと言っても、お店ごとに作っているラーメンも違う。お店の規模も違う。ポリシーも違う。
その圧倒的事実の中、「ラーメン屋みたいなものは」とカテゴリー全部をひっくるめて話をする。これは非常に乱暴で、全方位的に不躾な話です。
構図としては今回の余波として同じことが起こっている。当事者以外には分からない“毒性”なのかもしれませんが、危険な香りがプンプンすると思います。
以前、フジテレビ「バイキング」に出演させてもらっていた時、ある芸能人のスキャンダルをスタジオで展開していました。出演者のお一人がこちらに向かっておっしゃいました。
「結局、芸能マスコミなんてのはこういう話が出たほうがうれしいんだろ?」
すぐさま「僕は僕の考えで日々自分の仕事をしているので、カテゴリー全体を背負って話すことはできないし、やるのが妥当だとも思えません」とお答えしました。
それを受けて、再度その方がお話をしようとしたところで司会の坂上忍さんがおっしゃいました。
「中西さんは芸能記者というお仕事の中でも、タレントにインタビューをしてその人の言葉を広く世の中に伝えることをしている人。それぞれ記者さんごとにお仕事があるから、そこを全部一緒にして話を進めるのはそぐわないと思いますよ」
こちらの味方をしてくれたからうれしい。そんな表層的なことではなく、カテゴリーではなく個別の話という視座を持って番組が進んでいった。そこに僕は真っ当さを感じたのですが、その逆の物騒さを今回の余波からは感じています。
記者も十人十色。これは間違いないことです。雇用形態、ポリシー、組織の仕組み。全て違います。だから、ここも十把一絡げに「こうすべき」ということは妥当ではないです。ただ、個人的には待ったなしの“スピード感”が求められているのだと思います。
30年ほど前のワイドショーの映像を今見たら、多くの人はギョッとします。「いきなり家に行って、こんな突撃取材をするなんて…」という違和感が出てきます。
そんな感覚を覚えるということは、今は「そうではない」ということ。時代の変化とともに取材のやり方も変わっている。伝え方も変わっている。これは間違いありません。
もともと僕はデイリースポーツで13年半、芸能担当記者として勤務していましたが、その頃は薬物事案で芸能人が逮捕されたら、過去に同様の事案で逮捕された芸能人の一覧表を作っていました。それがそういう事件が起こった時のルーティンにもなっていました。ただ、今は基本的にどこのスポーツ紙もやっていません。本人の望まない過去の蒸し返しになるからです。
何も変わっていないわけではない。それが事実ではありますが、その変化のスピードよりも、世の中が求めるスピードのほうが上回っている。そこの齟齬が出ているのが今の世の中だと思います。
もし、それが悪い形で羽生さんの身に降りかかったのならば、不運やそんな言葉では済まされない厳然たる不幸が生まれてしまった。ここはしっかりと受け止めるべきところだと思います。
ずっとそれでやってきたから、これからも「そんなもん」でやる。この「そんなもん」からの早急な脱却が求められていることを強く感じます。