「馬搬」から、オルタナティブな林業を考える
先日、東京の衆議院第一議員会館の国際会議室で、第1回日英馬搬シンポジウムが開かれた。
馬搬とは、読んで字のごとく、馬でものを運ぶことだが、ここでは主に木材を対象にしている。古くから林業の現場では行われていたものだ。地方によっては地駄曳きと呼ばれることもあり、とくに東北や北海道では多かった。しかし、今では風前の灯火だ。
岩手県の遠野市では、昭和30年代まで40人以上の馬方がチームを組んで搬出をしていたが、機械化が進み重機などが使われるようになって急減した。ところが10年ほど前に岩間敬氏が高齢の二人の馬方に弟子入りし、技術の伝承を始めた。そして3年前に遠野馬搬振興会を設立し、馬搬の技術の伝承と普及研修を行っている。
一方、イギリスでも20年以上前に、1~2人まで減った馬搬(ホースロギング)の技術者の伝承と復活運動が始まり、現在ではチャールズ皇太子の後援も得て、盛り返しつつある。そこで、英国ホースロガーズの前会長で、現在は英国馬搬公益信託法人の会長のダグ・ジョイナー氏を招聘して、シンポジウムを開催したというわけだ。
シンポジウムでは、日本とイギリスの現状を報告されたほか、馬搬の木材によって家具づくりを試みた報告や、馬搬による木材であることを証明する認証ロゴマークをつくり、トレーサビリティを示す計画などが発表された。
それにしても、なぜ今、馬搬なのか。単なる昔ののどかな技術に対する郷愁ではない。
まず馬を使うと、無理な作業道の開削が必要なくなり、山肌を痛めることなく木材の搬出ができる。馬は、想像以上に急傾斜でも登るし、小回りが利く。道を入れて機械を導入するようなコストもかからない。小規模な丸太を出すのに向いているのだ。当然、重機のような化石燃料はいらず、二酸化炭素の排出もない。つまり、馬による木材搬出を、低コストで環境に優しい搬出法として注目したのだ。
さらに馬を飼う地域の伝統文化の復活にも寄与するという。
もちろん、馬を飼うのは簡単ではない。餌を与えて調教も必要だし、病気も怪我もする。また小規模な搬出量ゆえに、馬搬だけの収入では生活できないだろう。
そこで馬を利用したほかの仕事~農業や観光や環境教育など~を絡ませつつ年間を通した事業を考えないといけない。シンポジウムでも触れられていたが、補助金も必要になるかもしれないし、企業などの後援を得ることも考えないといけない。(シンポでは、協賛企業名を馬の名前にする案が提案されていた。)
現実問題、継続的に馬搬をビジネスとして維持するのは大変だろう。馬搬が、木材の搬出の主流になることはあり得ない。あくまで、小規模で隙間的な木材搬出法である。
しかし見方を変えると、まったく別の世界が見えてくる。
これは大規模化と機械化、そして画一化を押し進めるばかりの現在の日本林業に対して、オルタナティブな提案になるのではないか、と感じた。小規模でも低コストならば、意外と利益率を高めることは可能かもしれない。環境に優しいことをアピールすることもできる。
補助金に期待することへの批判もあるかもしれないが、すでに現代の日本林業は、補助金漬けだ。何千万円もする大型林業機械を補助金で購入することに比べたら、ずっと安いはずである。
同時に、多様な林業の一端を世間に示す発信力がある。林業への関心が薄れる現代に、馬搬を通して世間に興味を持たせることが可能だ。馬が森の中を木材を曳いて進む様子を想像しただけで、顔がほころび、人々を引きつけるのではないか。乗馬セラピーも行われているように、馬には人を癒す力がある。
また見た目は同じ木材でも、「馬が運び出した」と聞けば、そこに夢を感じて利用したいと思う人々も現れるかもしれない。
だから近頃、全然面白くない林業をワクワクドキドキさせる有力な武器になるように思えるのだ。
近頃、日本の林業を「この方法でやれば、復活する」と啖呵を切ることが流行っているように思う。機械化や林地の集約化もその一つだろう。逆に自伐なら、いうのもどうか。たしかに瀕死状態の林業事情に触れると、一発逆転を狙いたくなる気持ちはわかる。しかし、その発想が間違っているのだ。
多種多様な自然条件と歴史、そして社会事情が複雑に絡み合った各地の林業を再生するには、やはり、あの手この手で模索しなければならない。「一発」はないのだ。同じ地域でも、大きな林地もあれば、小規模な搬出もある。地形もさまざまだ。作業道を入れられない場所もあるだろう。その一つ一つにていねいに対応する林業が求められているはずだ。
そんなとき、馬搬のような伝統技術にもう一度目を向けることも、その多様な林業の一手法になるのではないかと思うのである。