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【その後の鎌倉殿の13人】藤原頼経の上洛を阻もうとした悪日「八龍日」それを押し切って上洛した論理とは

濱田浩一郎歴史家・作家

嘉禎4年(1238)1月28日、鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経(九条道家の3男)は、上洛を開始します。頼経は、3代将軍・源実朝の死後、都から鎌倉に迎えられました。その時はまだ三寅という幼名であり、僅か2歳でした。自らの生まれた地を見れるという事で、頼経には想うところがあったはずです。都へ出立する前に行われたことは、陰陽師・安倍晴賢による祈祷でした。というのも、その日は「八龍日」という凶日。「その日に出立するのは、些か良くないのでは」との意見もあったのです。出発の10日前にも、それについての議論が交わされていました。それまでにも「出発するのは、縁起の良い日を選んで、その日にするのが良いのでは」との見解も出されていたのです。「どうすれば良いのか」ー頼経も悩んでいたようで、中原師員を通して、陰陽師に下問がありました。それに対し、安倍晴賢は「御出門の後は、外出を憚る必要はありません。その訳は、御出門が行われた場所に暫くおれば、それは、路次の逗留(旅の途中)に準じるからです。それでも、吉日を選んで出発するのに越したことはありませんが。出発は、来月の二日か三日が良いでしょう。改めて陰陽道にお尋ねください」と回答しました。同月20日、頼経は幕府御所を出ます(御出門)。輿に乗り、安達義景の甘縄の邸に入るのです。そして同月28日、「既に御出門の上は、出発の日程を気にする必要はない」として、頼経は上洛の途につくのでした。「御出門が行われた場所に暫くおれば、それは、路次の逗留(旅の途中)と同じ」という論理で「強行突破」したと言えるでしょう。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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