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豊臣秀吉の朝鮮渡海をめぐって、なぜ徳川家康と石田三成は激論をしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉の朝鮮渡海をめぐる場面が取り上げられていた。秀吉は名護屋城(佐賀県唐津市)に在陣しており、朝鮮渡海を望んでいた。石田三成が賛意を示す一方で、徳川家康は猛然と反対した。なぜ、2人は激論になったのかを考えてみよう。

 天正20年(1592)4月、秀吉は名護屋城に着陣した。同年6月、西笑承兌は北山等持院に書状を送り、名護屋城や朝鮮での状況を知らせた(「等持院文書」)。その概要は、次のようになろう。

①藤堂高虎の報告により、小西行長・加藤清正の軍勢が臨津江で朝鮮軍に勝利したこと。

②宇喜多秀家の報告により、秀家がソウルに入ったこと。行長の軍勢が平安道、清正の軍勢が咸鏡道にそれぞれ進軍したこと。

③朝鮮の八道に秀吉の代官を派遣し、九州・中国・四国の軍勢を明に攻め込ませる予定であること。

 この時点で日本軍は、有利に戦いを進めていたが、ここで問題が起こった。西笑承兌の書状によると、秀吉の朝鮮渡海が決まっていたが、家康と前田利家がこれに猛然と反対したのである。なかでも、家康の反対ぶりは、利家以上のものがあったという。

 一方、三成は秀吉が朝鮮に渡海するのがもっともであり、実現しなければ朝鮮の戦いに勝利できないと反論した。2人の口論は秀吉の面前で行われた。

 家康と利家の言い分は、もし秀吉が朝鮮に渡海し、万が一のことがあれば、天下が果ててしまうというものだった。つまり、秀吉が朝鮮で戦死することがあれば、日本国内が再び乱世に陥るということになろう。

 結局、秀吉は家康らの主張に納得し、朝鮮への渡海を翌年の3月に延期することにした。すでに、秀吉の馬廻衆、小姓衆などは、朝鮮渡海の準備が済んでいたという。

 そもそも秀吉は寧波に移る計画を持っていたほどだから、朝鮮への渡海は予定していたのは疑いない。三成は朝鮮で戦っている諸大名の士気を高めるためにも、秀吉の朝鮮渡海は当然のことだと思っていたのである。

 先述したとおり、行長・清正の戦いも順調で、秀家もソウルに入っていたのだから、三成は秀吉の身に危険が及ばないと考えたに違いない。

 ところが、家康と利家の考えは、決してそうではなかった。そもそも天下人の秀吉による朝鮮渡海がありえず、万が一、戦死することがあれば、日本が一大事になると考えたのである。

 裏返して言えば、家康や利家は秀吉の代わりが務まると考えておらず、この時点で天下に志がなかったといえるかもしれない。むしろ、2人は秀吉の方針に従って、とりあえず朝鮮を支配し、その恩恵にあずかろうと思っていた可能性すらある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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