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マンデラ逝去の報に接して:現代の「哲人王」逝く

六辻彰二国際政治学者

南アフリカの元大統領ネルソン・マンデラ氏の逝去が、今朝からニュースで伝えられています。95歳と高齢のうえ、体調が優れず入退院を繰り返していたことは知っていましたが、突然のニュースに朝から大きなショックを受けました。マンデラ氏の一生は、アフリカの解放とともにあったといえます。

マンデラ氏は1918年、南アフリカに生まれました。当時、南アフリカは英国の植民地統治下にありました。英国の衰退や白人居住者の多さといった理由から、南アフリカは1910年、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドとともに英連邦を構成する「南アフリカ連邦」に昇格されました。外交権などを除き、高度な自治権をもつにいたった南アフリカでは、しかし参政権は白人に限定されていました。

第一次世界大戦後、欧米諸国の多くでは女性にも参政権が認められ、成人普通選挙が普及し始めていました。しかし、民主主義の原則は欧米諸国の内部に限定され、南アフリカでも自治を行う権利は白人にのみ認められていたのです。

白人による支配は、第二次世界大戦が終結した1948年選挙で、主にアフリカーナ(ボーア人)が支持する国民党が勝利したことで、より強化されました。オランダ系移民を祖先とするアフリカーナたちは、もともと農民として土地を耕すことが多かったのですが、後から入植してきた英国系移民との武力衝突(第一次ボーア戦争:1880-81、第二次ボーア戦争:1899-1902)に破れ、さらに産業化・都市化が進むなかで非熟練労働者として経済的に疎外されるプア・ホワイトとなる者も少なくありませんでした。一方で、人口においては英国系を凌いでいたため、白人だけの普通選挙が普及するにともない、アフリカーナが政治的に優位に立つに至ったことは、不思議ではありません。しかし、所得の低いアフリカーナにとって、人口でさらに多い黒人は、雇用をめぐる競争者であると同時に、「白人であることによる特権」を意識させ、その裏返しとして憎悪を募らせる対象でもありました。その結果、アフリカーナ主導の国民党政権は、黒人が大都市に入る際に身分証の携帯を義務付ける「パス法」、白人と非白人の結婚を禁じる「異人種間婚姻禁止法」、人種ごとに居住地域を決める「集団地域法」などを相次いで導入し、これによってアパルトヘイト(人種隔離)体制が成立したのです。

マンデラ氏は大学在学中、反アパルトヘイト運動に加わりました。アフリカの解放運動では、当時の高等知識層であった大学生が主導的な役割を果たすことが珍しくありませんでした。パス法に反対して自らのパスを燃やし、世論に訴え、抗議のデモや集会を率いたことで、マンデラ氏は白人政権からマークされることになります。

当時マンデラ氏が暮らしていた家は、今もヨハネスブルク近郊のソウェトにあります。マッチ箱を並べたような簡素な集合住宅の一角にある家には、今も外から撃ち込まれた銃弾の跡が残っており、警察による鎮圧やアフリカーンス右翼からの襲撃の激しさを物語っています。

1964年、マンデラ氏は「国家反逆罪」の嫌疑で、終身刑に処されました。しかし、監獄にあってもその不屈の闘志が衰えることはありませんでした。同様に収監されたANC(アフリカ民族会議)メンバーと勉強会を行った他、反白人の人種的な主張を展開するBCM(黒人意識運動)の急進派とも一致点を模索し、自伝の執筆に着手し、さらに白人の看守を相手に監獄の環境改善を求める運動を起こしています(詳しくはマンデラ氏の自伝『自由への長い道』を参照)。

マンデラ氏が収監されてから12年後の1976年、アフリカーナの言語であるアフリカーンスの強制に抗議する大規模なデモが、ソウェトで発生しました。この、学生のデモに白人警官が発砲し、黒人の子ども4名が射殺されたソウェト蜂起を契機に、南アのアパルトヘイト体制は国際的な批判を集めるようになりました。国連による経済制裁が始まったのは、翌1977年のことです。

しかし、冷戦時代、西側諸国政府の多くは、近隣の社会主義国家に対する破壊工作に余念がない、筋金入りの反共国家・南アフリカを有力なパートナーと捉えていたため、冷戦末期の1980年代末に至るまでマンデラ氏を共産主義テロリストと位置づけ、白人政権を支持し続けました。なかでも、米国のレーガン政権、英国のサッチャー政権などは国民党政権を強く支持していたことで知られます。

ところが、冷戦構造が崩壊に向かい、さらに西側内部の市民レベルで白人政権に対する批判的な世論が広がるなか、欧米諸国も徐々に国連による経済制裁に加わることで、制裁が強化されていきました。そのなかで、「政経分離」の原則に基づき、経済的利益を優先させてアパルトヘイトを「国内問題」として取り扱い、最後まで南アと貿易を続けた日本が、1988年の国連総会でアフリカ諸国から名指しで非難され、これを受けて遅ればせながら経済制裁に参加したプロセスは、日本政府にとって「なかったことにしたい記憶」のうちの一つなのかもしれません。

ともあれ、国際的な圧力のもと、マンデラ氏は1991年に釈放。その前後から、デクラーク大統領を首班とする白人政権と、ANCをはじめとする黒人勢力の間での協議が進み、これに基づき1994年には全人種参加型の選挙が初めて実施され、マンデラ氏が大統領に就任したのです。

ただし、アパルトヘイト体制が崩壊したとはいえ、それまでの反目や憎悪が一朝一夕に解消されるわけはありません。マンデラ氏が人種間の団結を模索した有名なエピソードに、大統領就任の翌1995年のラグビー・ワールドカップがあげられます。当時、ラグビーは南アにおいて白人のスポーツで、ナショナルチームに黒人選手はわずか1名しかおらず、さらに長く国際的に孤立していたことから国際大会での成績もふるわない状況にありました。マンデラ氏はナショナルチームのキャプテンだった(白人の)フランソワ・ピアーズ選手に、白人と黒人の混成チームのワールドカップでの活躍が国民に勇気を与えると直接伝え、新生南アフリカのための協力を求めたのです。ピアーズの尽力で、少しずつ人種間の垣根を越えていったチームは、下馬評をひっくり返し、世界最強といわれたニュージーランド代表オールブラックスを破って優勝したのです。この史実は、クリント・イーストウッド監督の映画「インビクタス/負けざる者たち」に詳細に描かれています。

このエピソードが物語るように、マンデラ氏の基本姿勢は、「人種間の融和と共存こそが南アフリカに欠かせない」というものだったといえます。言い換えれば、白人に対して憎しみをぶつけるのではなく、「過去は消せないがこれを直視し、そのうえで協力して乗り越える」ことが、南アフリカにとって最良の道だという判断でした。この姿勢は、当時の責任者たちに法による制裁を課さないことにより、逆にアパルトヘイト時代に発生した人権侵害を究明する「真実和解委員会」の設置にも見られます。

これは、一方で(黒人からのものも含む)偏狭な人種主義を超えた、理想家マンデラの博愛主義を示すと同時に、政治家マンデラの現実的な判断でもありました。良くも悪くも、南アフリカ経済の実権を握ってきた白人を排斥することが、極度の混乱をもたらし、南アフリカ全体にとって利益にならないことを、マンデラ氏は辛抱強く黒人に訴えました。2000年代、隣国ジンバブエでは、白人の財産を黒人政権が一方的に接収するようになったことを契機に、白人のジンバブエ脱出が相次ぎました。その結果、かつて「奇跡」と呼ばれたジンバブエ経済は凋落し、2億パーセントという天文学的インフレさえ経験することになったのです。これに鑑みれば、マンデラ氏の融和路線は先見性があったと言えるでしょう。

豊かな理想と的確な現実認識。古代ギリシャの哲学者プラトンが求めた「哲人王」が、もし現実にあり得るとすれば、マンデラ氏こそ現代にあってその座に最も近い人間だったと思うのは私だけでしょうか。

いずれにせよ、マンデラ氏の逝去はアフリカが一つの時代の節目を迎えたことを象徴します。天然資源開発を中心に経済成長が順調とはいえ、アフリカは世界一の貧困地帯で、南部アフリカでは成人のHIV感染率が10パーセントを越えている国も珍しくありません。また、貧富の格差を背景に、治安の悪化も深刻化しています。アフリカ最大の経済力をもつ南アフリカでさえ、昨年9月には鉱山労働者を中心とする大ストライキが発生し、デモ隊に対する警官隊の発砲で34名が死亡しました。南アフリカとアフリカが、マンデラ氏の理想に近づけるかは、今後の課題として残っていると言えるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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