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後世の史料で悪女と貶められた、戦国時代の3人の女性

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
淀殿。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、たくさんの女性が登場した。戦国時代には後世の史料で悪女と貶められた女性がいるので、うち3人を紹介することにしよう。

1.日野富子(1440~1496)

 日野富子は戦国時代の幕開けの応仁・文明の乱頃から活躍した女性で、将軍の足利義政の妻だった。そもそも夫の政治に対する熱量が低く、非常に無責任だった。妻の富子も「天下の悪妻」、「守銭奴」などと言われ、後世の史料によって貶められた。

 富子は京都七口に関所を設け、通行人から関銭を徴収した。関銭は内裏の修繕費などに充てる予定だったが、大半は富子の懐に入っていた。これを知った人々は徳政一揆を起こし、関所を破壊したのである。これが事実としても、誇張して悪意に満ちて後世の書に書かれたのである。

2.瀬名(1539~79)

 瀬名は、徳川家康の正室であるが、やはり「悪女」と罵られた。家康がお万の方に手を出して、子(秀康)を産んだ。しかし、瀬名は怒り狂い、お万の方を素っ裸にして、木に括りつけたという。また、後年は家康によって死に追いやられた。

 瀬名が死に追いやられたのは、徳川家にとって黒歴史だった。それゆえ、瀬名は「生得悪質、嫉妬深き御人也」、「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」、「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」、「凶悍にてもの妬み深くましまし」と後世に史料で悪しざまに罵られた。

3.淀殿(1569~1615)

 淀殿は豊臣秀吉の側室で、後継者となる秀頼を産んだ。しかし、一説によると、秀頼は秀吉と淀殿の間に産まれた子ではないと言われている。秀頼は、淀殿と大野治長との間に産まれた子であるという説が流布しているが、根拠のない妄説である。

 淀殿は秀頼を溺愛しすぎて、ダメにしたともいわれている。大坂の陣に際しては、作戦についても口出しした。諸将が秀頼の出陣を要望すると、淀殿は秀頼が戦死することを恐れ、半狂乱になって反対したという。こちらも、確実な根拠があるわけではない。

 人間には良い面と悪い面があり、それはここで取り上げた3人の女性も同じである。彼女たちは一度の過ちが誇張され、後世に成った書で貶められた典型例だろう。必ずしも事実とはいえない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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