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歴史を変えた9月1日に起きた2つの大地震

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:MeijiShowa.com/アフロ)

 「防災の日」の今日9月1日は、94年前に関東地震が起きた日ですが、実は421年前に日本を大きく変えた地震が起きた日でもあります。

寺田寅彦が記した関東地震の揺れ

 1923年9月1日11時56分、東京を関東地震の揺れが襲いました。夏目漱石の弟子で物理学者だった寺田寅彦は、上野の喫茶店での地震の揺れの様子を、震災日記の中で、見事に描写しています。

 「T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠うらを下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向あおむいて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみしみしと音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。」(「震災日記」より)

 最初に短周期の揺れがやってきて、その後強い揺れを感じ、さらに船に乗ったような周期4~5秒の長周期での大揺れがやってきて、最期は小さな長周期の揺れが続いたこと、強い揺れが2度襲ったことが記されています。

 その後の研究で小田原周辺から房総半島南端に書けての広い震源域の中で、小田原周辺と三浦半島沖の2カ所で強い破壊があったことが分かっており、そのことが、揺れ方の記述に見事に表現されています。上野台地での揺れですから、被害が大きかった軟弱地盤の下町や、震源に近い神奈川県に比べ、揺れは相対的に小さかったものと推察されます。

 また、ガタガタという初期微動のあと、強い揺れの主要動がやってきて、その後、長周期のあと揺れが続いている様子も、巨大地震による大規模堆積平野の揺れの特徴を見事に表しています。当時は、長周期の揺れが苦手な高層ビルや免震ビルが無かったので、「これならこの建物は大丈夫」と思ったのでしょうか。また、高知出身の寺田寅彦ですから、海溝型地震だった1854年安政南海地震の揺れ方を母親から幼いときから聞いていたのでしょう。

関東地震が起きた大正時代

 大正時代は、1912年7月から26年1月までの15年弱です。大正と共に乃木希典大将が明治天皇を追って殉死し、明治が終わったことを実感します。一方で、犬養毅や尾崎行雄などによって護憲運動が始まり、元老政治、藩閥政治を脱して、政党政治を目指した時期にもあたります。普通選挙を望む普選運動、労働運動、部落解放運動などの民衆運動が芽生えたいわゆる大正デモクラシーの時代です。この時代に民主的な考え方を取得していたおかげで、戦後の民主化がうまく進んだのかもしれません。

 この時代はきな臭いこともありました。第一次世界大戦(14年~18年)が勃発し、我が国は戦争特需で、経済的に発展し、民主化も進みました。しかし、直前の中華民国の樹立(12年)やロシア革命(17年)、ドイツ革命(18年)など、主要国での政変が続きました。また、米騒動や、朝鮮や中国での反日デモもありました。

 大戦後、20年に国際連盟が発足し常任理事国になった我が国は軍事力も増しました。22年には、日本共産党が結党し、ソビエト連邦の成立やイタリアでのムッソリーニ政権の樹立などもありました。まさに、世界が激動しつつあるときに23年関東地震が発生しました。

関東大震災の犠牲者

 大正時代は、関東地震が起きるまでは地震・火山災害に関しては比較的平穏で、大きな災害は死者94人を出した1914年秋田仙北地震や、同年に起き58人の犠牲者を出した大正桜島噴火くらいでした。そんな中、23年9月1日午前11時58分に関東地震が起きました。相模トラフでの巨大地震で、震源は神奈川県西部、地震規模はM7.9でした。

死者・行方不明者は、10万5,385人と言われています。当時の人口は5750万人程度でしたから、人口比を勘案すると現代では約20万人になります。

 犠牲者は東京府と神奈川県に集中し、東京府が70,387人、神奈川県は32,838人でした。当時の人口は東京府448万人と神奈川県142万人、現在はそれぞれ1,365万人と914万人ですから、これで換算すると犠牲者は、東京と神奈川の犠牲者はほぼ同じになり、全体で42万5千人を越えます。

 さらに、犠牲者が集中した東京市と横浜市を見ると、それぞれの人口は210万人と42万人で、犠牲者は、6万9千人、2万7千人でした。両市の死亡率を比べると横浜市が倍になっており、横浜の被害の甚大さが分かります。また、現在の人口は、東京都23区940万人、横浜市370万人ですから、これで換算すると犠牲者は区部と横浜で55万人にもなります。

 また、東京市に着目すると、当時、西側に約170万人、東側に40万人が居住していましたが、死者は西側で約1万人、東側で約6万人でした。下町が広がる東側の死亡率は西側の25倍にもなります。寺田寅彦の文章からも台地の上の揺れは下町に比べ強烈ではなかったことが推察されます。

 東京市の死者の死因に関しては、火災が6万6千人、家屋倒壊が3千人弱となっており、東京の被害の主因は地震火災であることがわかります。

 ちなみに、東日本大震災に比べ地震エネルギーは1/30程度ですが、関東大震災の死者は現代に人口換算すると20~30倍にもなります。また、関東大震災の死亡率は東日本大震災の5倍程度ですから、耐震化が進んだとはいえ、人口集中が更に進んだ首都圏ではより大きな死亡率になる恐れもあります。また、東京の東西の死亡率の差は、軟弱地盤が広がる低地の地震危険度の高さを暗示しています。このように、人口の一極集中を回避する国土形成のありかたや、災害危険地域を回避する土地利用の大切さが実感できます。

地震の続発と時代の激動

 関東地震による経済被害は、当時の日本の国民総生産の1/3、一般会計歳出額の3倍に相当しました。この震災による人的・物的・経済的被害の大きさは、当時の日本にとって「国難」とも言えるものでした。震災後、政府は、緊急勅令によるモラトリアムを出し、さらに震災手形割引損失補償令を公布し、震災手形による損失を政府が補償する体制を整えました。京浜地区には戒厳令が敷かれ、朝鮮人の暴動デマなど流れて虐殺事件も起こりました。また、地震後、大杉栄や伊藤野枝などが殺害される甘粕事件や、皇太子が襲われる虎ノ門事件も起きました。

 関東地震の2年後の1925年には、4月に治安維持法が、5月に普通選挙法が公布され、その直後に5月23日に北但馬地震が発生し428人が犠牲になります。26年には5月24日に十勝岳が水蒸気爆発し、岩屑なだれが山頂付近の残雪を融かし、泥流が上富良野市街を襲って死者行方不明144名を出しました。そして、年末に大正天皇が崩御し、大正が終わりました。

 昭和に入ると、さらに激動の時代を迎えます。27年3月7日に 北丹後地震が発生し428人の死者がでました。地震の1週間後には震災手形が不良債権化して、昭和金融恐慌が起きます。さらに10日経って、中国で南京事件が発生しました。たった17日間の間に大災害・事件が続発します。そして、29年10月に世界恐慌が勃発します、

 年が明けて、30年9月1日に、関東地震で38,000人もの犠牲者を出した被服廠跡の横網町に、大震災での身元不明者の遺骨を納め慰霊する震災記念堂が建設されました(戦後、東京大空襲の犠牲者の身元不明者の遺骨も納めることになり、東京都慰霊堂と改称されました)。同年11月26日 には北伊豆地震が発生、272人が犠牲になりました。当時、建設中だった東海道線の丹那トンネルが大きくずれたことが話題になりました。

 この時期には、世界恐慌の影響を受け、昭和恐慌が起きています。翌年31年には満州事変、32年5・15事件での犬養毅の暗殺、33年1月にはドイツにヒトラーのナチス政権が成立、3月末に国際連盟脱退と続き、不穏な空気が広がります。まさにそのとき、33年3月3日に昭和三陸地震が発生し、津波によって3,064名もの犠牲者を出します。

 さらに、34年3月21日に函館市で大火があり2,166名が犠牲になり、9月21日には室戸台風が来襲し京阪神地方を中心に死者・行方不明者3,036人を出しました。その2ヶ月後、寺田寅彦は「天災と国防」という文章を経済往来に著しました。そこには、「いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。」と記してあり、自然災害への対策の大切さに関して見事に警鐘を鳴らしています。

 そして、35年10月にはドイツも国際連盟を脱退し、36年には2・26事件が勃発、さらに11月に日独防共協定が締結されます。まさに風雲急を告げる中、37年日中戦争が始まり、8年間の戦争の時代へと突入していきます。

421年前の9月1日の地震も時代を変えた

 421年前の1596年9月1日にも大地震が起きました。慶長伊予地震です。政府・地震調査委員会の報告では、四国の中央構造線全体が活動した可能性が示唆されています。中央構造線は、東は、近畿地方の金剛山地の東縁から、和泉山脈の南縁、淡路島南部の海域を経て、四国北部を東西に横断し、伊予灘に達する我が国最大の断層帯で、その西には九州の別府-万年山断層が続いています。また、東側も、淡路島で、六甲―淡路島断層帯や有馬-高槻断層帯へと分岐しています。

 伊予地震発生の3日後の9月4日には、中央構造線の西の別府-万年山断層で慶長伊予地震が発生し、瓜生島と久光島が沈み、710名が犠牲になったと言われています。この場所は、南北の張力に伴ってできた別府-島原地溝帯の東端に位置しており、熊本地震を起こした布田川断層や日奈久断層、阿蘇山や雲仙普賢岳などもこの地溝帯にあります。

 さらに翌日の9月5日には、有馬-高槻断層帯で慶長伏見地震が発生し、1,000人以上が命を落とし、伏見城の天守閣も損壊しました。

たった、3日間の間に、中央構造線を挟んで3つの大地震が発生するという前代未聞の連動地震です。元号も文禄から慶長に改元されました。また、伏見城で予定されていた明との講和も不調に終わり、翌97年から慶長の役が始まります。

 これらの地震に先立って、1582年に本能寺の変で織田信長が命を落とし、84年に豊臣秀吉と徳川家康の小牧・長久手の戦い、86年に養老-桑名-四日市断層や庄川断層が連動し多くの城が被害を受けたと言われる天正地震、90年小田原征伐、92年文禄の役などが起きていました。信長の時代が終わり、秀吉が全国統一を果たした時期に一致します。

 慶長の3地震が起きた後は、97年に慶長の役が始まり、98年秀吉の死後、日本に撤退します。さらに1600年の関ヶ原の戦いで家康が勝ち、03年に家康が征夷大将軍になって江戸時代が始まります。ちなみに、家康は、90年の小田原征伐の直後、秀吉から駿河から関東への転封を命ぜられ、江戸に居城を移すことになりました。

 このように、421年前の9月1日に起きた慶長伊予地震も、安土桃山時代から江戸時代へと時代を変える契機となった災害でした。

 関東地震は相模トラフの海溝型地震、伊予地震は活断層地震です。二つのタイプの地震に、しっかり備えていきたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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