2025年に節目を迎える災害・事故
新しい年を迎えました。1年前の元日には、能登半島地震が発生しました。災害関連死を含め、500人を超す犠牲者を出す大災害になってしまいました。また、8月8日には日向灘の地震が起きて、初めて南海トラフ地震臨時情報・巨大地震注意が発出されました。今年は災いの少ない年であることを祈りつつ、次への災害への備えを進める年にしたいと思います。さて、本年に節目を迎える地震について整理をしてみます。
2015年口永良部島と箱根山の噴火、小笠原諸島西方沖の地震
2015年は火山活動が活発でした。5月29日に口永良部島の新岳がマグマ水蒸気噴火をし、火砕流も発生しました。この噴火では、種子島の島間港から屋久島の宮之浦港に向かっていたフェリーが、救援のため口永良部島の本村港へ向かい、島民を屋久島に島外避難させました。さらに一か月後の6月29日には箱根山噴火しました。小規模な水蒸気噴火でしたが、降灰や空振が観測されました。約800年ぶりの噴火だったようです。口永良部島噴火の翌日の5月30日には、小笠原諸島西方沖の深さ682キロでの巨大地震が発生しました。マグニチュードはMj8.1と、日本付近で起きる深発地震としては最大で、47都道府県すべてで震度1以上の揺れを観測しました。震度4から5強の揺れとなった首都圏では、1万9千台のエレベーターが緊急停止するなどの問題が生じました。
2005年福岡県西方沖の地震と宮城県沖、三陸沖の地震
3月20日 福岡県西方沖の地震が起きました。地震規模はMj7.0で、震源に近い玄海島で大きな被害が出て、全島避難をしました。福岡市内でも警固断層沿いの被害が大きく、地震後、警固断層周辺に建設する建物の耐震性を割り増すことを推奨する条例が制定されました。この年は、東北地方の地震活動も活発で、8月16日にMj7.2の宮城県沖の地震、11月15日にMj7.2の三陸沖の地震が発生しました。
1995年兵庫県南部地震と地下鉄サリン事件
1月17日の早朝に兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、震度7を初めて記録し、6,437人もの犠牲者を出しました。大都市・神戸の周辺を襲った地震で、強震による建物倒壊が著しく、ライフラインの途絶や交通の寸断が起き、危機管理体制の不十分さなどが露呈しました。この地震を契機に、地震防災対策特別措置法や耐震改修促進法が制定され、日本の防災体制が一新されました。3月20日に発生した地下鉄サリン事件と相まって、日本の危機管理体制が見直されました。
1985年日本航空123便墜落事故とメキシコ地震
8月12日に日本航空123便のジャンボ機が御巣鷹山に墜落し、520名もの死者を出しました。日本で起きた過去最悪の航空機事故です。機体の後部にある圧力隔壁が破壊しておきました。9月19日にはメキシコの太平洋沖でミチョアカアン地震が発生し、湖を埋めて作られたメキシコシティを長周期地震動が襲い、高層ビルが倒壊する被害が生じました。震源から300キロも離れていたのに、このような事態となったことは、東日本大震災での大阪咲洲庁舎の共振を思い出させます。南海トラフ地震でも、東京・大阪・名古屋などに林立する高層ビルの長周期地震動対策が気になります。
1965年松代群発地震
この時の8月3日から1970年6月5日かけて5年間続いた群発地震で、6万回を超える有感地震が発生しました。M7.6の能登半島地震が発生した奥能登でも、2020年冬から同様の群発地震が起きていました。
1945年三河地震と枕崎台風
1月13日に三河地震が起き2,306人が犠牲になりました。前年の12月7日に東南海地震があり、その誘発地震とも言えそうです。その間の12月13日には名古屋の軍需工場への大規模空襲もありました。この地震の後、東京大空襲、沖縄陥落、原爆投下を経て敗戦を迎えます。さらに終戦一か月後の9月に枕崎台風が被爆地・広島に襲来し、3000人強の犠牲者を出します。翌1946年には南海地震、47年にカスリーン台風、48年に福井地震が起き、日本は戦災と自然災害で大きな痛手を受けることになりました。
1925年北但馬地震
5月23日に北但馬地震が起き、428人の死者が出ました。2年前の1923年には、関東大震災があり、その時の流言飛語を反省して、この年の3月22日に東京放送局がラジオ放送を開始しました。放送開始の挨拶をした初代総裁は、帝都復興の立役者の後藤新平でした。治安維持法や普通選挙法もこの地震の直前に公布されました。北但馬地震以降、1927年北丹後地震、1930年北伊豆地震、1933年昭和三陸地震と大地震が続発しました。そんな中、徐々に軍国主義化していき、日中戦争や太平洋戦争に突入していきます。そして、1944年東南海地震と1945年三河地震を経て敗戦を迎え、さらに1946年南海地震、1947年カスリーン台風、1948年福井地震と災禍が続きました。
1915年焼岳噴火
6月6日に北アルプスの焼岳が噴火し、山麓の梓川が堰き止められて上高地にある有名な大正池ができました。池に立つ美しい白樺の木立は、火山噴火の産物です。
1905年芸予地震
6月2日に起きた地震です。日露戦争の最中の地震で、直前の5月27日から5月28日に日本海大海戦があり、連合艦隊がバルチック艦隊を破っていました。この地震により呉の海軍基地も被害を受けましたので、地震と海戦の順番が入れ替わっていたら、日本の歴史は変わっていたかもしれません。
1885年淀川洪水
6月中旬から7月にかけて続いた淀川の洪水で、浸水被害面積は151平方キロにも及び、浸水戸数は7万戸を超え、死者・行方不明者81名、被災者30万人という甚大な被害になりました。
1855年安政江戸地震などの多数の地震
前年の12月23日と24日に起きた安政東海地震と南海地震によるM7クラスの余震が、2月16日、3月15日、6月8日、11月7日、12月3日、翌1856年3月8日に続発しました。これに加え、3月18日に飛騨で、9月13日に陸前で、11月11日に江戸(安政江戸地震)でM7クラスの直下地震が起きました。南海トラフ地震の発生後にはこういった地震の続発も考えておく必要があります。安政江戸地震の死者は1万人にも及び、今の大丸有にあった大名小路の武家屋敷が大きく被災しました。天下普請により日比谷入江を埋め立てた場所で、1923年関東地震でも強く揺れました。小石川にあった水戸藩江戸屋敷も倒壊し、両田といわれた藤田東湖と戸田忠太夫が落命しています。
1815年インドネシア・タンボラ火山大噴火
4月10日にスンバワ島で起きた人類史上最大の噴火です。大量の火山灰が噴出され、千キロの範囲で降灰があったようです。海にまで達した火砕流が大津波も発生させました。噴出物の総量は150立方キロにも及びます。これは有名な富士山の1707宝永噴火の200倍にもなり、日本全土が火山灰で覆われるような規模の噴火です。北半球を中心に低温や長雨などの異常気象となり、農作物の不作によって食料不足になりました。
1755年リスボン大地震
11月1日にポルトガルのリスボンを襲った大地震です。揺れ、津波、火災によって、世界の覇者ポルトガルの首都リスボンが壊滅し、その後のポルトガルの凋落の原因になりました。この地震の揺れは西ヨーロッパの広域で感じられ、リスボンの悲劇はヨーロッパの人々にとって大きな精神的ショックとなり、ヴォルテールやルソー、カントなどの哲学家に大きな影響を与えました。
1605年慶長地震
2月3日に発生した地震で、南海トラフ地震の候補の一つになっています。津波被害は広域に発生しましたが、揺れによる被害が余り報告されていないことから、他の震源域での発生の可能性も指摘されています。江戸幕府が始まった直後の地震でもあり、前後に1596年慶長伊予地震・豊後地震・伏見地震、1611年会津地震・慶長三陸地震などが起きています。まさに、1597年慶長の役、1600年関ヶ原の戦いなど、安土桃山時代から江戸時代に移る混乱期でもありました。
1185年文治地震
ユリウス暦の8月6日(グレゴリオ暦の8月13日)に発生した地震で、京都が大きく揺れたようです。4月25日(5月2日)に壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後の地震で、平安時代から鎌倉時代に移るときの地震です。琵琶湖西岸断層帯の活動や南海トラフ地震の可能性などが指摘されており、方丈記には、「また、同じころかとよ、おびたゝしく大地震ふること侍りき。そのさまよのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にたゞよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす」と記されています。地震のときに起きる自然現象が的確に記されており、海を琵琶湖と解釈すると琵琶湖西岸断層帯の活動が疑われるようです。
915年十和田湖噴火
有史以来、日本での最大規模の噴火で、火砕流や火砕サージにより、火口の周囲20キロ圏が焼き尽くされ、火砕泥流が米代川沿いに流下し、周辺を壊滅させました。この噴火と、十和田湖、八郎潟と田沢湖の三湖伝説との関りが指摘されています。
745年天平地震
ユリウス暦の6月1日(グレゴリオ暦の6月5日、文治地震まで同様)に、養老断層が動いた地震だと考えられています。養老断層は活動度の高い地震で、次の活動は1586年天正地震だと考えられています。1000年に一度程度の地震なので、養老の断層はしばらく大きな地震は起きないと考えられています。