一度は決裂した徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の和睦交渉。その経緯と謎の理由とは
今回の「どうする家康」では、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の和睦の模様が描かれていたが、一度は決裂していた。その経過について考えることにしよう。
天正12年(1584)4月以降、家康・信雄は秀吉に戦いを挑んだものの、互いに決定打を欠き膠着状態に陥っていた。両軍の激突が間近に迫った状況のなかで、和睦が模索されていた。
8月20日、聖護院道澄(近衛稙家の子)は伊達輝宗の家臣・遠藤基信に書状を送り、尾張では戦闘状態が続いているが、和睦を模索している状況であると伝えた(「財団法人斎藤報恩会所蔵文書」)。この時点で、どこまで和睦が進捗していたのは不明である。
とはいえ、秀吉の進軍は続き、8月26日に木曽川を越えて尾張に入り、28日には清須に軍勢を送り込み放火したので(『顕如証人貝塚御座所日記』)、家康は清須から岩倉(愛知県岩倉市)へと移った。
このときの秀吉方の戦果は大きく、奈良(同大口町)、赤見(同一宮市)にも放火すると、さらに一宮(同上)から敵が出てきたのえ、首を100余も討ち取ったという(「山田覚蔵氏所蔵文書」)。このような戦闘状況では、とても和睦は考えにくい。
状況が変化するのは、9月になってからである。9月6日、秀吉は侍女の「いわ」に書状を送り、信雄、家康、石川数正、そして犬山、長島の城主から人質を徴収することを条件として、和睦を結ぼうとしていることを伝えた(「東京大学史料編纂所所蔵文書」)。
秀吉は安井定次に書状を送り、戦勝が間近だと伝えているので、自身が優勢のまま戦いを終えようとしたのだろう。一方、北条氏直は家康を支援すべく、家臣の太田氏に尾張出陣を準備するよう命じており、予断を許さなかった(「安井文書」)。
結論を述べると、和睦交渉は決裂した。『家忠日記』によると、決裂したのは9月7日のことである(『多聞院日記』には9月8日とある)。その記録によると、「ただ1ヵ条のために破れた」と書かれているが、具体的にその1ヵ条の何が問題になったか不明である。
『顕如証人貝塚御座所日記』によると、秀吉は家康と和睦の合意に達し、互いに誓紙を交わしたと書かれており、家康方からは重臣の石川数正、酒井忠次らが交渉に当たったが、最終的に決裂したのである。
和睦が決裂した結果、家康は直後に重吉(愛知県一宮市)に軍勢を移動させた(「棚橋次郎一氏所蔵文書」)。一方の秀吉も軍法を制定し、臨戦態勢を整えた(「中川家文書」)。では、なぜ和睦が決裂したのだろうか。
9月8日に秀吉が前田利家に送った書状には、その詳細が書かれている(「尊経閣文庫所蔵文書」)。秀吉は手堅く戦いを進めていたので、情勢が厳しくなった家康方から和睦の申し入れがあった。
その条件は、信雄の御料人(娘)、家康の子・秀康、さらに久松定勝(家康の異父弟)、石川数正の実子、織田長益(信長の弟)および滝川雄利の実子を人質として差し出すことだった。尾張で家康方から和睦を懇望されたが、秀吉は許さなかったという。
残念ながら、何が気に入らなかったのかは書かれていない。家康たちにとって、不利な条件なのは明らかだ。両者は再び戦闘を再開するが、互いに和睦を模索していたのは事実である。しかし、締結に至るまでには、もう少し時間を要したのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)