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【深読み「鎌倉殿の13人」】個性豊かな俳優が演じる仁田忠常、山内首藤経俊、工藤茂光とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
仁田忠常、山内首藤経俊、工藤茂光は注目される。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、個性豊かな俳優が仁田忠常、山内首藤経俊、工藤茂光を演じる。彼らが何者なのか確認することにしよう。

■仁田忠常(?~1203)

 ユニークな語り口の高岸宏行さんが演じるのは、仁田忠常である。忠常は生年不詳。その本拠は、伊豆国仁田郷(静岡県函南町)である。前半生は、詳しくわかっていない。

 治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、ただちに馳せ参じた。それゆえ頼朝から信頼されており、忠常が病で重篤になった際、頼朝が見舞いに訪れたほどだった。

 以後、忠常は平氏追討に出陣して大いに軍功を挙げた。建久4年(1193)に曽我祐成・時致兄弟が父の仇の工藤祐経を富士野で討ち復讐すると、忠常は兄の祐成を討ち取った。

 建仁3年(1203)には、比企の乱が勃発する。比企の乱とは源頼家が重篤になったので、北条時政の主導により、次のように決定されたことが引き金になった。

①家督および日本国総守護職と東国28カ国の地頭職を一幡(頼家の嫡子)に譲る。

②西国38カ国の地頭職を千幡(のちの実朝)に譲る。

 比企能員は頼家の外戚だったので、この決定に大いに不満を抱いた。それは病の回復した頼家も同じで、能員に時政の追討を命じたが、失敗に終わった。

 乱後、忠常は北条時政の命によって、首謀者の比企能員を討った。その直後、忠常は源頼家から時政の討伐を命じられたが、返り討ちに遭ったのである。 

■山内首藤経俊(1137~1225)

 山口馬木也さんが演じる山内首藤経俊は、俊通の子として誕生した。山内首藤氏は源氏累代の家人で、経俊の母は、頼朝の乳母・摩摩局である。相模国山内荘(神奈川県鎌倉市)を本拠とした。

 治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、経俊のもとにも味方になってほしいと要請があった。しかし、平治元年(1159)の平治の乱で、源氏に与した父・俊通と兄・俊綱は戦死していた。

 経俊には父と兄の戦死という苦い経験があったので、平氏に勝てるわけがないと頼朝の使者に吐き捨てたのである。なお、経俊の兄弟の俊秀は、以仁王に従って戦死していた。

 結局、経俊は頼朝と敵対したが、のち軍門に降った。その際、母・摩摩局が頼朝に助命嘆願したので、相模国山内荘こそ没収されたものの、命だけは助かったのである。

■工藤茂光(?~1180)

 工藤茂光を演じるのは、なんと体重180kgの米本学仁さんだ。もちろん、これには理由がある(後述)。茂光は「狩野介」「工藤介」を称し、伊豆国狩野荘(静岡県伊豆市)を本拠とした。伊豆の在庁官人だったと考えられる。

 嘉応2年(1170)、茂光は朝廷の命によって、伊豆大島で猛威を振るっていた源為朝(頼朝の叔父)を討った。この一件から、茂光が武芸に秀でた人であったことが理解されよう。

 治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、茂光も馳せ参じた。ところが、石橋山の戦いで頼朝は敗北し、茂光はその際に討ち死にしたといわれている。

 茂光の死因については、頼朝のいる椙山陣に向かう途中、肥満のあまりに歩けなくなり、自害して果てたとも伝わっている。つまり、米本学仁さんを起用したのは、茂光が肥満だといわれているからだ(失礼!)。 

■むすび

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、今後も注目すべき登場人物が続々と登場するだろう。そうした人物についても、随時紹介することにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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