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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が弟の義経に馬を引くよう命じた深い理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は、なぜ弟の義経に馬を引くよう命じたのか。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12回目では、源頼朝が弟の義経に馬を引くよう命じていた。しかし、義経はそれを断っていたが、その事情を深く掘り下げてみよう。

■若宮宝殿の上棟式

 源頼朝が弟の義経に馬を引くよう命じた背景は、ドラマと実際とでは大きく異なっている。以下、『吾妻鏡』に書かれている内容を紹介しよう。

 養和元年(1181)7月12日、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の若宮宝殿の上棟式が執り行われた。頼朝以下、御家人が参列して厳かに儀式が執り行われた。

 その際、頼朝は工事に従事した番匠(大工)に対して、馬を授けた。祭事の際に奉納された馬は、神馬と称され神聖視された。

 頼朝は、馬の引手を弟の義経に命じた。しかし、義経は馬の下手を引く者がいないという理由で、何とか頼朝の依頼を断ろうとした。義経は馬の引手について、もっと身分が低い者がやるべきだと考えたのだろう。

 しかし、頼朝は畠山重忠や佐貫広綱が下手を引けばいいのだから、問題ないはずと指摘した。そして、義経が馬の下手を引く仕事が卑しいと考えているので、嫌がっているのではないかと責めた。図星である。

 すると、義経は頼朝の厳しい態度に恐れを抱き、すぐに立ち上がると、馬を引く役に従事したというのである。実際は駄々をこねるわけにいかず、断り切れなかったのである。

■頼朝が義経に馬を引くよう命じた理由

 ところで、なぜ頼朝は愛すべき弟の義経に対して、馬を引く役を命じたのであろうか。ほかにも、できる者がいたはずである。そこには、頼朝の深い思慮があった。

 義経は弟であるが、同時に配下の者の一人にすぎなかった。当時の頼朝は東国の有力な豪族に支えられていたので、いかに義経が弟とはいえ、特別扱いをすることができなかった。また、義経と再会して日が浅く、その力量を知らなかったという事情もあろう。

 つまり、頼朝は東国の有力な御家人を前にして、弟の義経であっても特別扱いしないことを示すことで、主従関係の秩序を明確にしたのである。ただ、のちに頼朝は義経の類稀なる軍事的な才能を見抜き、打倒平氏の先鋒を任せた。

■むすび

 ドラマのなかの義経は、非常に態度が悪く、いつもやりたい放題である。しかし、実際は違うだろう。義経は、兄・頼朝の忠実な部下の一人だった。仮に、義経がドラマのような態度を見せたら、頼朝に討たれたのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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