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実は織田信長よりも酷かった!? 明智光秀の恐るべき異常な人間性とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
亀山城跡。南郷公園の明智光秀像。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、明智光秀が傷んだ料理を出し、織田信長から暴行されていた。実のところ、光秀は信長以上に酷い人間だったと言われているので、検証しておこう。

 光秀と言えば、連歌や茶の嗜みがあるので、教養人のように思われている。しかも、信長から散々イジメられた逸話がたくさんあるので、ひ弱な印象を受ける。しかし、光秀の性格を詳しく記した日本側の一次史料はなく、それは何も信長に限ったことではない。

 一方、光秀は八上城(兵庫県篠山市)を兵糧攻めにした際、配下の将兵に「敵兵を撫で斬り(皆殺し)にせよ」と命令した。冷酷非情な一面もあったのだ。そのような光秀の人間性は、フロイスの『日本史』を一読すると、いっそう鮮明になってくる。『日本史』は、光秀の人間性を次のように記している。

 自ら(光秀)が(信長から受けている)寵愛を保持し、増大するための不思議な器用さを身に備えていた。

 (光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

 また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。

 もはや解説の必要もないくらいだが、光秀の狡猾さ、残忍さが浮かび上がってくる。築城技術に優れていたというのは、光秀の居城の坂本城(滋賀県大津市)のことで、それは信長の居城の安土城(同近江八幡市)に次ぐ名城だったと評価されている。

 『日本史』には、続けて次の記述がある。

 彼(光秀)は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼(信長)を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼(信長)の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自ら(光秀)は(そうでないと装う)必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。

 一言で言えば、光秀は信長の「忠実な犬」だっといえよう。この記述を信用するならば、信長は光秀を信用していたに違いない。それは、次の記述でも確認することができる。

 また、友人たちの間にあっては、彼(光秀)は人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略(という手段を弄すること)には精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼(光秀)を丹波、丹後二ヵ国の国主に取り立て、(信長が)すでに破壊した比叡山の大学(延暦寺)の全収入――それは(別の)国の半ば以上の収入に相当した――とともに彼(光秀)に与えるに至った。

 光秀は、人を騙すのが得意だった。一方で、信長は謀略が得意ではなかったので、まんまと光秀に騙されたということになろう。このフロイスの光秀評によって、これまでの印象は見事なまでに覆されてしまう。むしろ、光秀は信長以上に酷い人間だったといわざるを得ない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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