【深掘り「鎌倉殿の13人」】源実朝が坊門信清の娘を妻に迎えるまでの紆余曲折
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の33回目では、源実朝が坊門信清の娘を妻に迎えることになった。その経緯について、詳しく掘り下げてみよう。
■源実朝の婚姻
建仁3年(1203)9月、源実朝は兄の頼家の後継者として、3代将軍に就任した。この時点で実朝は12歳の少年だったが、元服後を見据えて、妻を迎える準備を進めていた。
当時の武家は自由恋愛などなきに等しいので、妻を迎えるならば、有力の武将(あるいは公家)の娘になるのが通例だった。もちろん、実朝も例外ではなかった。
当初、実朝の妻の候補は、足利義兼の娘だった(『吾妻鏡』)。義兼は河内源氏の流れを汲む名族で、源家の門葉として厚遇されていた。その本拠は下野足利(栃木県足利市)で、のちに室町幕府を開く足利尊氏を生み出した。
■坊門信清の娘
ところが、実朝は義兼の娘を妻にすることを拒んだ。『吾妻鏡』には、明確な理由が記されていない。義兼の娘を娶ると、義兼の威勢が伸長し、北条一族を脅かす可能性がある。実朝の意向というよりも、北条時政の危惧によって拒否された可能性はあろう。
元久元年(1204)10月、実朝の妻として坊門信清の娘を迎えることになった。こちらも、なぜ坊門信清の娘なのか、明確に理由が記されていない。
信清は姉が高倉天皇の后だったので、後鳥羽天皇の外叔父になる。内大臣まで昇進を果たし、後鳥羽のもとで権勢を振るった。つまり、信清は朝廷で絶大な権力を握っていたのだ。
時政は義兼の娘を実朝の妻とし、将来に不安を抱くよりも、今後の朝廷との関係を見据えて、あえて信清の娘を選択したと考えられる。12歳の実朝の考えがあったとは思えない。
■まとめ
こうして信清の娘は鎌倉に下向し、実朝の妻になったのである。それは、おそらく時政が計略を巡らしたことであり、最適な選択だったといえるのかもしれない。