トラック運転手から復帰のBC信濃コーチ 日韓でプレー後に詐欺事件巻き添えの憂き目も、滲む優しさ 前編
ルートインBCリーグ・信濃グランセローズの田中実野手総合コーチ(56)は、現役時代、日本ハムと韓国KBOリーグで外野手として活躍。引退後は関西独立リーグ、韓国でも指導者を務めた。
現場復帰は9年ぶり、昨年までは関西と関東を往復する長距離トラックを運転していた。いつ会ってもにこやかな田中。その優しさ、朗らかさは稀有な経験、度重なる困難を経験したからこそ、滲み出るものだった。
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高校の実績ゼロからのドラフト指名
大阪出身、当時は「大内実」という名前だった田中は中学卒業後、野球特待生として香川県の尽誠学園高に進んだ。同期はPL学園高の「KKコンビ(清原和博、桑田真澄)」。だが田中が二人のように注目されることはなかった。それどころか高校生活最後の年、仲間と野球をすることすら出来なかった。
「新チームになった高2の秋、野球部同期の『後輩いびり』が大ごとになって、チームは1年間活動停止になりました。グラウンドに入れないだけではなく野球部の寮にも住めない。僕は野球留学だったので野球をしないのなら退学ということになるのですが、親元から通うことを条件に学校に残れることになりました」
田中の母は息子に高校を卒業させたいと夫を大阪に残して香川へ。母と子で二人暮らしを始めた。
野球をやる機会を奪われた田中は、自宅前でのバットスイングとランニングを一人で毎日続けた。そんな田中を不憫に思った大河賢二郎監督は夏休みの間、母校の大阪商業大、そして大阪ガス野球部の練習に田中を参加させた。
「大商大の練習に、たまたまプロのスカウトも見に来ていて、そこで目を付けてもらったのがプロ入りのきっかけです」(田中)
田中は85年秋のドラフト会議で日本ハムと近鉄の競合の末、抽選により6位指名で日本ハムに入団した。
俊足の外野手として3年目の90年に1軍に定着。翌91年にはセンターのレギュラーとして白井一幸と1、2番コンビを組み120試合に出場、打率2割6分3厘、14盗塁を記録した。この歳のオフ、結婚を機に韓国籍の父の名字・大内から、母の旧姓・田中に戸籍変更。日本国籍を取得した。
心機一転、さらなる飛躍を目指した田中。だが92年には出場機会が減り、93年オフ、26歳の時に戦力外通告を受けた。そこで田中は海外の野球に活路を見出した。
韓国での第2の野球人生
「その頃は韓国の野球のことはよく知らなくて、立花(義家)さんら日本の選手が数名プレーしていた台湾に行こうと思っていました。ですが周りの勧めで韓国に行くことにしました」
当時のKBOリーグは外国人選手制度がなく、両親のどちらかが韓国にルーツがあれば自身が韓国籍ではなくても、「僑胞選手」として在籍することが出来た。田中は「キム・シル(金実)」として第2の野球人生をスタートさせた。田中は韓国での選手生活で指導者として必要なことを感じ取る。
「日本ハムの時は小柄で足が速いということで、『転がせ』ということばかり言われていました。しかし韓国で試合に出続けるようになって、どんな選手でも『まずはしっかりと振る』、『長打を打てるようになる』ことが大事だと思いました」
田中は94年から7シーズンにわたり、サムスン、サンバンウル、トゥサンの3球団に所属。オールスターゲームにも2度出場するなど活躍した。体が動く間は韓国でプレーし続けたいと思った田中だったが、98年からKBOも「助っ人外国人」を導入。後に日本へ渡るタイロン・ウッズらが存在感を示す中、日本籍で外国人となる田中に枠の問題が生じた。
「体はどこも痛いところはなかったのですが、引退することを決めました」。2000年、33歳でユニフォームを脱いだ。
大阪に戻り、知人の紹介で不動産会社に就職。そこから9年、野球とはまったく離れた生活を送っていた。ところが関西独立リーグへの韓国チームの参入で、再び球界との縁がつながる。指導者として新たな一歩を踏み出した田中。その矢先、予期せぬ不動産絡みのトラブルの巻き添えとなった。