『刀伊の入寇』で藤原隆家と共に活躍した2人の武人と武士の台頭
平安時代までの日本列島は日本海という天然の要塞によって他国と比べると圧倒的に異民族からの侵略機会が少なく、あってもその規模は小さなものでした。
そのため、異民族による侵略対策もあまりされていませんでした。
そんな状況で起こったのが『光る君へ』でも放送された「刀伊の入寇」。これまでと比べ物にならないほどの大規模な異民族による襲撃でした。
準備がほぼない状況で侵略を追い払うのは簡単ではありません。しかし、藤原隆家をはじめ何人もの公卿・武人の存在があり、この危機的状況から抜け出すことができました。
刀伊の入寇(といのにゅうこう)
「刀伊の入寇」は1019年に対馬、壱岐、筑前、肥前に「刀伊」と呼ばれる女真族の海賊が攻め込んできた事件。「刀伊」は高麗の「蛮族・夷狄」を意味する言葉の音をそのまま日本の文字に当てたものです。
女真族は現在でいう中国東北地方東部〜ロシアの東南部の辺りを拠点としていました。この中国北方の遊牧民族はモンゴル人をはじめ、世界を見渡しても強い民族が比較的多く拠点とする地域。女真族も彼らと渡りあい、12世紀に『金』を17世紀には『清』を建国するほどの実力を備えています。
一方で平安時代中期に大陸を治めていた『宋』の国では国内の武人たちを抑え込む政策をとっており、金銭で周辺諸国との対立を何とかしようとしていました。10世紀初めに唐が滅んで戦乱の時代に入ると、唐の時代に権力を獲得していた武人たちによる王位簒奪が何度も見られたため、文官優位の国を作り上げていたのです。
宋が武力をあまり重視しなくなったことで、周辺異民族は自立傾向に向かいました。宋の北方では契丹が優位に立つようになり、南方の朝鮮半島では新羅に代わり高麗が成立。その過程で戦乱が起こって治安が悪化していたこともあり、女真族を含む近辺の人たちの中には海賊として周辺地域を荒らす者たちが出始めます。
刀伊の入寇でやってきた人たちも、そんな海賊集団の一つです。
藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
藤原道長の兄・道隆を父に、藤原伊周を兄に、藤原定子(一条天皇の中宮)を姉に持つ京の中でも栄華を誇るやんごとなき一家の四男として生を受けました。
優雅な平安貴族のイメージとは逆を行く人物で、周辺に荒くれものを置いて喧嘩をしたりすることもあったようで、若い頃の隆家はたびたびトラブルを起こしています。そんな隆家は「さがな者(荒くれ者、手に負えない人)」と世間から揶揄されていました。
一方で度量が大きく小さな物事にとらわれない人物やユーモアのあるお調子者と思われるエピソードも残っています。『光る君へ』でもそんな人柄で描かれているように思います。
目を悪くし治療のために自ら大宰府に赴き、現場で善政を敷いていた隆家。現地の豪族とも良い関係を構築します。この関係性を築けたからこそ刀伊の入寇に対処できたのでしょう。
都では藤原実資にかわいがられており、離れた後も個人的な手紙のやりとりを続けていました。『小右記』に刀伊の入寇が詳しく後世に残っているのも、現地の豪族と良い関係を築けたのも彼の人柄があってのことと考えられます。
平為賢(たいらのためかた)
『平将門の乱』を鎮圧した側の平貞盛を祖父に持つ平為賢は、「府の止むこと無き武者」と称されるほどの武勇に優れた人物でした。
刀伊の入寇では、彼が指揮をした軍が多くの敵を射殺したと藤原実資の『小右記』に記されています。当然、戦後の第一勲功者は平為賢であると藤原隆家は報告書を送りました。
大蔵種材(おおくらのたねき)
『藤原純友の乱』で活躍した大蔵春実の孫にあたる人物。馬弓で天下無双と呼ばれるほどの腕前でした。
刀伊の入寇は70歳の高齢でありながら先頭で奮戦します。また、退却する刀伊軍をわずかな手勢で追撃をしますが、敵も迅速で取り逃しました。それでも追撃をする味方が少ない中、種材の勇敢さを称し戦後の論功行賞では壱岐守に任じられます。
それから200年後の元寇では大蔵太子と呼ばれる女武将が活躍し、彼女は種材の子孫とも言われています。
恩賞が不十分で武士の台頭を招く
戦後の論功行賞では戦いに赴いた者たちへの恩賞が必要ないと言う朝廷に対し、藤原実資が「勅符がなく戦闘に及んだとしても勲功ある者は賞するべき」と掛け合いました。実資の尽力で平為賢と大蔵種材には恩賞があったようですが、ほかの者にも与えられたかは記録にはありません。
朝廷側が恩賞を出し渋るのは地方勢力の台頭を恐れたと考えられており、こうした対応が武士層の不満を招き後の反乱へとつながっていくのでした。実際に道長死去後には平忠常の乱(1027年)と前九年の役(1051年)が起こっています。
これらの反乱を鎮めたのもまた武士と呼ばれる者たちですが、朝廷は私闘と判断し十分な恩賞を与えませんでした。こうして貴族層が武士を重用しはじめて武士の台頭を招く結果を招き、やがて摂関政治が終わり院政時代に突入します。
こうして平安末期には平清盛が登場し、以降は鎌倉⇒室町⇒安土桃山⇒江戸と武家が政治の中心になるのでした。