源実朝は公暁に殺害されたが、背後で操っていた人物がいたのだろうか
今から805年前の建保7年(1219)1月27日、源実朝は鶴岡八幡宮で参拝を終えて帰途に就いたとき、公暁(源頼家の子)に殺された。
公暁の父の源頼家は、北条一族の謀略により、不幸な最期を迎えたことで知られている。しかし、かねて実朝の暗殺が単独で行われたのか、黒幕がいたのかについて議論がある。その点について考えてみよう。
建保7年(1219)1月27日は稀に見る大雪で、60cmほどの積雪だったという。この日の夜、源実朝は鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)で拝賀を終えると、待ち伏せしていた公暁(源頼家の子)が「親の仇を討つ」と叫びながら実朝に襲い掛かった。警護の兵はいたが、その隙をついて、公暁は父の仇の実朝の暗殺に成功したのである。
実朝を殺した公暁は、実朝に供奉していた源仲章も殺した。もともと、北条義時が実朝に供奉する予定だったが、体調不良で仲章が代わりを務めていた。もし、仲章に交代していなければ、義時が殺されていた可能性がある。
実のところ、公暁は実朝の次に義時を殺害する計画だったという(『愚管抄』)。公暁は義時が仲章と交代したことを知らなかったので、本懐を遂げられなかった可能性がある。公暁は実朝の首を持ち去ったが、その日のうちに討たれたと伝わっている。
『吾妻鏡』には実朝が殺害される予見があったというが、とても信じることはできないので、編纂者の創作であると考えられる。実朝暗殺事件については、『吾妻鏡』などの史料に書かれているが、公卿の黒幕を特定することは困難である。興味本位の類に過ぎない。
公暁が親の仇として討つならば、頼家を葬り去った北条義時になろう。公暁の本当の目的が義時の殺害ならば、実朝や仲章は巻き添えになった可能性はあるが、真相は不明であるといわざるをえない。
実朝暗殺事件の史料には制約があるものの、かねて黒幕説は提示されてきた。北条義時、三浦義村は代表的な黒幕候補であるが、北条氏と三浦氏ら御家人による共謀説もある。近年では、幕府の滅亡を願う後鳥羽上皇が黒幕だったとの説すらある。
実朝暗殺を記した史料は、『吾妻鏡』などの二次史料に限られており、黒幕を探るのは非常に困難である。それぞれの史料には執筆意図があり、どういう根拠でそのようなことを書いたのかわかりかねる点もあるので、容易に賛同し難いのである。
実朝の政治手腕については、近年になって評価する向きもあるが、実質的に支えていたのは義時ら有力御家人だったのは疑いのない事実である。実朝が義時らにとって邪魔になったとは考えにくく、あえて高いリスクをおかしてまで公暁に暗殺を命じる必然性はあるのか疑問である。
実際には、公暁が親の仇である義時を討とうとして行列を襲撃したが、そこには義時の姿がなかった。そこで、運悪く実朝や仲章が殺されたと考えられないだろうか。つまり、公暁による単独犯である。
主要参考文献
坂井孝一『源実朝 「東国王権」を夢見た将軍』(講談社選書メチエ、2014年)
五味文彦『源実朝 歌と身体からの歴史学』(角川選書、2015年)。