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アマゾン奥地に単身入り、ジャングルで部族と暮らす。蛇口から水が出るだけで感動したことも!

水上賢治映画ライター
「カナルタ 螺旋状の夢」の太田光海(あきみ)監督 筆者撮影

 インフラの整備された都市とはまったくの別世界。いわゆる原生林の中のような未開の地に縁もゆかりもないひとりの若者が足を踏み入れて、現地の人々と出会い、同じ時を過ごす。

 簡単に表すとこんな過程を辿って生まれたといっていいのが、現在公開中のドキュメンタリー映画「カナルタ 螺旋状の夢」だ。

 ある種、誰もの心のどこかにある見たことのない世界へのあくなき冒険心と探究心が結実している1作といってもいいかもしれない。

 単身でアマゾンに分け入り、1年に渡って現地の部族に密着して本作を作り上げた太田光海(あきみ)監督に訊くインタビューの第三回へ入る。(全三回)

 ここまでのインタビュー(第一回第二回)では、アマゾンに取材にいくまでの経緯、シュアール族のセバスティアンとパストーラとの出会いについて語ってもらった。

シンプルに『いい映画』と言えるものが撮りたかった

 最後は、その撮影を振り返ってもらった。

「大学の研究の一環で1年どこかに滞在し、フィールドワークをして作品を発表するという奨学金のプログラムで取り組んだわけですけど、シンプルに『いい映画』と言えるものが撮りたかった。

 このプログラムの本筋には沿っていなかったかもしれないんですけど(苦笑)。

 得てしてこういうプログラムで作品を撮るとなると、学術的な価値や資料としての価値みたいなところにばかり頭がいってしまう。

 学術面をクローズアップしてしまうとどうしても説明的になったり、資料的価値ってものに自分の存在の基盤を置いてしまう。

 僕の中では、そういう面を押さえながらも、基本としては、いい映画を撮りたかった。

 だから、撮影手法もちょっと違うというか。

 たとえば、夜の森の中で、覚醒作用のある植物『アヤワスカ』をセバスティアンが口にするシーン。

 学術的なアプローチだったら、遠目から全体を押さえておけばいい。『こういうことが行われている』と証拠映像として成り立っていれば問題ない。

 でも、僕はそういった証拠映像であるとともにシネマティックな映像を目指した。

 それで、セバスティアンに寄ってクローズアップで迫って、顔にライティングとして松明を当てたりして撮ったんです。

 そう撮ることで、証拠映像でもあり、ある種の彼の体に宿る身体感覚みたいなものも感じてもらえるんじゃないかと思って。

 だから、とにかくいい映画にするために最善を尽くした撮影の日々でしたね」

「カナルタ 螺旋状の夢」より
「カナルタ 螺旋状の夢」より

現地での1日過ごし方は?

 ちなみに滞在中はどういう1日を過ごしていたのだろう?

「映画の中では、家を作ったり、イベント的な集まりがあったりといったところを入れましたけど、1日ごとに話を絞ると、意外とそんなに変化はないといいますか(笑)。

 みなさんの日常と同じで、そんな毎日のように特別なことが起こるわけではない。

 まず朝起きたら口噛み酒のチチャを飲んで、誰かとしゃべって、家のこのあたりがちょっと壊れそうだから修理するかとかなって修理する。もちろんなにもしない日もある。

 で、昼ご飯を食べて。で、今日の夕飯の分の作物を森から取ってこようかっとなってとってきて、夕飯を食べる。

 で、村の人と行き来があるので、夜、誰かのところに集まって、チチャを飲みながら世間話をして、酔っぱらって眠くなったらお休みと言った感じですね(笑)。

 あと夕方に川で水浴びしたり、基本的には、その日の食料があれば、別にほかにやることはない。

 たとえば、誰かが新しい畑を開墾したいといったら、みんなで手伝おうとなって、森で作業をするときもある。

 そういうときはけっこうな肉体労働になって、へとへとになりますけど、それ以外は、けっこう起きて飲んで食べて、人としゃべって、また食べて寝るっていう毎日でしたね」

「カナルタ 螺旋状の夢」より
「カナルタ 螺旋状の夢」より

ジャングルがあまりに日常になってしまって、

撮るべきものが見いだせなくなるような状態になっちゃったこともありました

 そういう日々を送る中で、自身の体に逆転現象のようなことが起きていたという。

「前回、長期滞在する中で、彼らの古くからの営みと、近代に影響された営みの双方に気づいたといいましたけど、ある程度の時期から現地の生活になじみ過ぎちゃって(笑)、そういう感性が働かなくなったというか。

 ジャングルがあまりに日常になってしまって、はじめは新鮮に感じていたことも当たり前になってしまって、撮るべきものが見いだせなくなるような状態になっちゃったんですよね(苦笑)。

 外から来たときにはあった自分の感性みたいのもが働かないような状態になってしまった。

 逆にそういうとき、都会の町に出ると、蛇口をひねって水が出るだけで『わっ、蛇口から水が出るじゃん』と感動してしまう。

 ついこの間まで蛇口から水が出るのが当たり前だったのに(笑)。

 だから、もう途中からはセバスティアンの語るビジョンの話とか、まったくエキゾチックに聞こえない。

 『いや、それはそうでしょう』と当たり前のこととして聞いている自分がいる。そういう状態になっていました。

 都会に出たときに、町の人と話すと、だいたい『おまえ、そんなところに住んでいるのか』ということになる。

 変な話ですけど、そういうとき僕の中でも違和感が生じるんです。『うわ、この人は町の人間だ。俺らとは違う』と。

 どこかマインドがシュアール人になってしまっている。

 世界有数のメガシティである東京出身の僕が、エクアドルの人口1万人の小さい町に行って、さらに『俺らと違う』と感じてしまうぐらい、頭の中も体も現地の人間に切り替わっていた。

 だから、そういう時期は映像をほぼ撮っていないです。

 でも、その時期を過ぎるとまた生まれてくる次の段階みたいものがあって。そういうことを何回も繰り返して撮影は続いていきました。

 まったく撮っていない時期もあれば、急に意欲が湧いてきて撮りまくったりといった波が何回もあって。

 その過程を経ることでいろいろなことがろ過され、凝縮され、最終的にフィルターに掛かって絞り出たものが、この映画のシーンの数々だと思っています」

「カナルタ 螺旋状の夢」より
「カナルタ 螺旋状の夢」より

作品を通して、アマゾンを遠い世界としてだけとらえるのではなく、

自分とも結びつけて、リンクしてくれたら

 こうして完成した作品をいま自身ではこんなふうにとらえている。

「日本からすると、アマゾンというだけで遠い世界に思われるかもしれない。

 確かに日本では考えられない世界が広がっているところはある。

 でも一方で、アマゾンですら『そうなんだ』という近代化の影響がそこかしこにあるわけです。

 それに、彼らの誰かを大事に思う気持ちや日常の人間的感情には、『やはり同じ人間なんだ』と思わせられるものがある。

 つまり同じ地平でつながっているところがある。

 なので、作品を通して、アマゾンを遠い世界としてだけとらえるのではなくて、自分とも結びつけて、リンクしてくれたらいいなという気持ちがあります。

 そうすると、いろいろと自分の生活であったり、生き方であったり、なにか気づきや発見があるんじゃないかなと思います」

「カナルタ 螺旋状の夢」より
「カナルタ 螺旋状の夢」より

「カナルタ 螺旋状の夢」

監督・撮影:太田光海

全国順次公開中

場面写真はすべて(c)Akimi Ota

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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