「どうする家康」織田信長は足利義昭を傀儡とせず、室町幕府を再興しようとした
大河ドラマ「どうする家康」では放映されなかったが、織田信長は室町幕府を再興しようと計画していた。その内容について、詳しく考えることにしよう。
かつて、織田信長は足利義昭を傀儡にしようとしたといわれてきたが、それは誤りである。永禄12年(1569)1月、信長は室町幕府を再興すべく、「殿中掟九ヵ条」と追加の「七ヵ条」を定めた。その概要を確認することにしよう。
「殿中掟九ヵ条」の前半4ヵ条では、室町幕府の再興に伴い、御部屋衆などの仕官、公家衆などの参勤、惣番衆などの伺候が再開されたので、そうした人々の勤務体制について先例を守るよう規定した。信長は室町幕府を否定するどころか、積極的に支援していたのだ。
後半の四ヵ条は、①裁判を内々に将軍に訴えること(直訴)の禁止、②奉行衆の意見を尊重すること、③裁判の日をあらかじめ定めておくこと、④申次の当番を差し置いて、別人に披露することがないこと、を定めた。
それらは室町幕府の訴訟・裁判にかかわるものであり、幕府が公正・公平な裁判を執り行うための措置なのだ。そして、最後の9条目は、門跡などが妄りに伺候することを制約したものである。
追加の7ヵ条は室町幕府の訴訟・裁判に関するもので、「殿中掟九ヵ条」の後半の4ヵ条の補足的な意味合いがある。重要なのは、裁判を起こす者が奉行人を通すこと、あるいは直訴の禁止などの規定である。
第1条は寺社本所領の当知行(現実に当該地を知行している状態)安堵の原則を定め、第7条は義昭が当知行を安堵する場合は、安堵の対象者に当知行が虚偽でない旨の請文を提出させることを規定した。
「殿中掟九ヵ条」と追加の「七ヵ条」は、もともと規定されていたので、信長は幕府を機能させ、京都や畿内の秩序維持を期待したと指摘されている。信長は室町幕府―守護体制の再構築や公武統一政権を目論んだのではなく、旧来の室町幕府のシステムをそのまま復活させようとした。
つまり、信長は自らが将軍になるつもりもなく、将軍配下の副将軍や管領になるつもりもなく、室町幕府を温存する体制を志向した。むろん、この時点では、義昭を将軍の座から引きずりおろそうとは微塵も考えていなかったに違いない。