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大谷翔平の退団直後にエンジェルスで他の選手が背番号「17」を使用するのは「異例」なのか

宇根夏樹ベースボール・ライター
大谷翔平 Aug 28, 2023(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 ハンター・ドージャーは、背番号「17」のユニフォームを着て、ロサンゼルス・エンジェルスのスプリング・トレーニングに参加する。これまでの6シーズン、2018年から2023年まで、エンジェルスの背番号「17」は、大谷翔平(現ロサンゼルス・ドジャース)が使用していた。

 エンジェルスの永久欠番は6つ。ジム・フレゴシの「11」、ジーン・オートリーの「26」、ロッド・カルーの「29」、ノーラン・ライアンの「30」、ジミー・リースの「50」に、ジャッキー・ロビンソンの「42」がそうだ。

 彼らの半数は、エンジェルスでプレーはしていない。オートリーは、選手でもなく、エンジェルスのオーナーだった。背番号「26」には、アクティブ・ロースターの25人(当時)に準ずる、あるいは並ぶ存在、という意味が込められている。ロビンソンは、ドジャースでプレーした。人種の壁を破った選手として、背番号「42」は、全球団の欠番となっている。リースは、20年以上にわたり、エンジェルスでコーチを務めた。選手時代は、エンジェルスが誕生する前だ。

 あとの3人のうち、カルーは、1979年から1985年まで、エンジェルスで一塁を守った。エンジェルスの背番号「29」は、カルーが最後だ。エンジェルスは、1986年に欠番とした。一方、背番号「11」は、フレゴシが最後ではない。背番号「30」もそうだ。ライアンは、1972~79年にエンジェルスで投げた。ライアンが去った後、1992年に欠番となるまでに、少なくとも8人が「30」を背負っている。

 ただ、ライアンに続くエンジェルスの背番号「30」は、ベースボール・リファレンスによると、1981年のトム・ブルナンスキーだ。ライアンが退団した直後の1980年は、誰も使用していなかったということになる。

 とはいえ、大谷の退団直後にドージャーが「17」を背負うのは、異例というほどではない気がする。

 例えば、バリー・ボンズは、ピッツバーグ・パイレーツで「24」を背負っていた。ボンズのパイレーツ時代は、メジャーデビューから数え、1986年から1992年までの7シーズンだ。背番号「7」としてデビューし、そのシーズンの途中に「24」に変更した。パイレーツの背番号「24」は、ボンズが去った直後の1993年に、デニス・モーラーが使用している。

 ボンズは、1990年と1992年にパイレーツでMVPを受賞した。その間の1991年は投票2位なので、このスパンの順位は、2021~23年の大谷と同じだ。1992年のオフにFAとなったボンズは、サンフランシスコ・ジャイアンツに入団した。この時に交わした6年4375万ドルの契約は、当時、史上最高の総額だった。

 なお、エンジェルスで最も長く背番号「17」を使用したのは、大谷ではない。ダリン・アースタッドは、1996~2006年のエンジェルス時代のうち、最初の3シーズンが背番号「27」、その後の8シーズンは「17」を背負った。

 大谷やボンズほどのビッグ・ネームではないものの、2000年にアースタッドが記録した240安打は、1985年のウェイド・ボッグスと並び、1931年以降では3番目に多い。その上にいるのは、262安打(2004年)と242安打(2001年)のイチローだけだ。また、アースタッドは、2000年と2002年と2004年にゴールドグラブを受賞している。この3シーズンは、それぞれ、レフト、センター、一塁を定位置とした。アースタッドが「2番・センター」としてプレーした2002年に、エンジェルスは、初のワールドシリーズ優勝――現時点では最後でもある――を飾った。

 ドージャーについては、こちらで書いた。

「大谷翔平に代わる、エンジェルスの背番号「17」はこの選手。5年前は本塁打も三塁打も二塁打も二桁」

ベースボール・ライター

うねなつき/Natsuki Une。1968年生まれ。三重県出身。MLB(メジャーリーグ・ベースボール)専門誌『スラッガー』元編集長。現在はフリーランスのライター。著書『MLB人類学――名言・迷言・妄言集』(彩流社)。

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