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日本、国家としての記念日は、思いやりをもって一つになってこそ!サンフランシスコ講和会議、複眼的考察

にしゃんた社会学者・タレント・ダイバーシティスピーカー(多様性語り部)
鎌倉大仏のそばにあるJ.R.ジャヤワルダナ初代スリランカ大統領の顕影碑・筆者作成

4月28日。

日本はその長い歴史の中で幾度となく節目たるものをこの日に迎えている。

1908年のこの日に異国に夢を求め、第1回目となるブラジル移民船―笠戸丸が神戸港を出発した。

戦争を終えた日本は1952年のこの日に、中華民国つまり台湾と平和条約に調印した。

同じくこの日は日本とアメリカ間の安全保障条約が発効された日でもあり、そしてサンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)が発効された日である。

それからちょうど12年後の1964年のこの日に、早くも日本がOECDに加盟した。

1991年のこの日。鎌倉大仏の敷地内である式典が執り行われた。J.R.ジャヤワルダナ大統領顕影碑の除幕式である。式典に集まった人々の中、真っ白いサロン(腰巻)姿に、これもまた真っ白い長袖のシャツに身を包んだ1人の老人が現れた。胸元には、真っ赤な花リボンが付いていた。

彼は今回の主人公、その時、年齢にして84歳であったジャヤワルダナ初代スリランカ大統領本人である。彼は、その40年前にもここに来ている。大仏をバックに撮った写真も残っている。それは、1951年9月にサンフランシコで開かれた講和会議に参加する途中立ち寄ったときのものである。前回同様、今回も夫人が側に付添っている。

幕が開けられた碑、そこにはジャヤワルダナ氏の顔、そして英語、日本語とシンハラ語の3つの言語で書かれた文章がある。

英語で「Hatred ceases not by hatred but by love」と書いてあり、日本語では、「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない」と書いてある。

ジャヤワルダナという人物が何者かであることを伝えるためにも、この石碑に書かれている文章をここになぞりたい。

J.R.ジャヤワルダナ前大統領顕影碑誌

この石碑は、1951年(昭和26年)9月、サンフランシコで開かれた対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示された、スリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤワルダナ大統領を称えて、心からなる感謝と報恩の意を表すために建てられたものです。ジャヤワルダナ前大統領は、この講和会議の演説に表記碑文のブッダの言葉を引用されました。

そのパーリ語の原文に即した経典の完訳は次の通りであります。

『実にこの世においては怨みに報いるに 怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。』(『ダンマパダ』5)

ジャヤワルダナ前大統領は、講和会議出席各国代表に向かって、日本に対する寛容と愛情を説き、日本に対してスリランカ国(当時セイロン)は賠償請求権を放棄することを宣言されました。

さらに「アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本が必要である」と強調して一部の国々の主張した日本分割案に真っ向から反対して、これを避けられたのであります。

いまから40年前のことですが、当時、日本はこの演説に大いに助けられ、勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出したのです。

今、除幕式の行われたこの石碑は、21世紀の日本を創り担う若い世代に贈る慈悲と共生の理想の石碑でもあります。この原点から新しい平和な世界が生まれ出ることを確信します。

1991年4月28日 ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕影建立推進委員会

過ぎた戦争と真っ向から向き合おうとしない日本において、ジャヤワルダナの功績もまた葬られて、日本国民に知られることなく、結果、スリランカ人のみが知るという「片思い」の構造を作り上げた。

その中、比較的庶民的なところだと、唯一この話を細々とつなげてきたのは仏教関係者だけである。それも伝統のある大手の仏教機関や関係者というより、明らかに中小零細で新興の仏教機関の関係者によってであった。

51年のサンフランシスコ講和会議において、世界のほとんどの国々、もちろんスリランカなどの支えがあって明くる年の4月28日はサンフランシスコ講和条約発効に至った。いわずして日本の戦後史において記念すべき日である。2013年に東京において政府主催で日本の「主権回復」の記念式典が開催された。

しかし、ここでいう何をもって「日本」とするか、その「日本」の定義についてすっきりしないことがあまりにも多い。

条約発効に伴い、朝鮮や台湾の旧植民地出身者またはその子孫にとって、それまであった日本国籍が有無を言わさず一方的にはく奪された。それまで与えられていた選挙権までも当然奪われ、そしてその日を境に彼らが「外国人」と分離された。日本社会、そして周辺関係諸国との今に至って共生を阻む最も大きな原因の基がまさにここで生まれた。

日本にとって最も大事でありながらギクシャクしている中国も韓国もサンフランシスコ会議には呼ばれていなかった。隣国の関係よりも、現状のアメリカにおんぶに抱っこの形もまたサンフランシスコで決定された。

もう一つは、本土が主権回復を果たした1952年4月28日の同じ日、沖縄、奄美群島と小笠原諸島が正式に日本から切り離されアメリカに渡った。日本に捨てられたこの日は、沖縄などにとって「屈辱の日」となった。結局は、奄美群島は1953年まで、小笠原諸島は1968年まで、沖縄が1972年5月15日まで米国占領下に置かれた。

72年、その年は偶然にも、ジャヤワルダナ氏の母国「セイロン」が「スリランカ」と生まれ変わった年でもある。

「君の国と沖縄は、接点があるんだ」20年近く前に、当時大学院生の私にそのことを教えてくれたのは、山内徳信氏であった。彼は、米軍基地で埋め尽くされた村を、日本国憲法第9条を礎に、紫芋で村おこしを通して基地従属から脱し「主権回帰」のために力を尽くした読谷村の村長であった。

1972年5月15日こそが日本の主権回復だと訴えるウチナーンチュ(沖縄人)を含む日本人。日本が一つになる日としてこっちのほうがよっぽどしっくりくる。

日本、国家としての記念日を決める時、ウチナーンチュもヤマトンチュも、在日外国人も含めてこの国に関わるすべての人間が思いやりの心をもって一丸となれるということを考えることは何よりも先である。そこで初めてジャヤワルダナ氏の功績にかかっている靄が消えて本当に輝くのである。

参考資料として下記の記事も合わせて読んでいただきたい。

多死国日本、後始末への提案ースリランカからの言づけ

忘れてはならない!JRジャヤワルダナ大統領、日本への本当の願い(サンフランシスコ講和記念日によせて)

社会学者・タレント・ダイバーシティスピーカー(多様性語り部)

羽衣国際大学 教授。博士(経済学)イギリス連邦の自治領セイロン生まれ。高校生の時に渡日、日本国籍を取得。スリランカ人、教授、タレント、随筆家、落語家、空手家、講演家、経営者、子育て父などの顔をもっており、多方面で活動中。「ミスターダイバーシティ」と言われることも。現在は主に、大学教授傍ら、メディア出演や講演活動を行う。テレビ•ラジオは情報番組のコメンテーターからバラエティまで幅広く、講演家として全国各地で「違いを楽しみ、力に変える」(多様性と包摂)をテーマとする ダイバーシティ スピーカー (多様性の語り部)として活躍。ボランティアで献血推進活動に積極的である。

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