ハンガリーからのユダヤ人移送停止直前にアウシュビッツに送られてガス殺された1歳の赤ちゃん
110万人が殺害されたアウシュビッツ
第二次世界大戦時にナチスドイツが支配下の地域でユダヤ人を差別、迫害して約600万人のユダヤ人、ロマ、政治犯らを殺害した、いわゆるホロコースト。そのホロコーストの象徴的な存在の1つがアウシュビッツ絶滅収容所。アウシュビッツ絶滅収容所では欧州からのユダヤ人やロマ、政治犯ら110万人以上が殺害された。
アウシュビッツ絶滅収容所は現在でも世界中からの観光客や欧米、イスラエルの学生らが社会科見学で訪問しており、2019年には過去最高の230万人以上がアウシュビッツ絶滅収容所を訪問していたが、2020年は世界規模でのパンデミックの影響で、アウシュビッツ絶滅収容所博物館も一時閉鎖しており、昨年の訪問者数は52万人程度だった。最近ではオンラインやバーチャルでの展示にも注力している。それでも現在でもアウシュビッツ絶滅収容所は世界的な観光名所の1つである。
そして、アウシュビッツ博物館ではツイッターでも世界中に向けて、様々な情報発信を行っている。世界的に根強い反ユダヤ主義に対しても警鐘を鳴らすツイートも多い。
アウシュビッツ博物館のツイッターの特徴は、毎日、アウシュビッツ絶滅収容所で犠牲になった方々の誕生日や殺害された日に、彼らの写真とともに生まれた場所、いつ殺害されたかを投稿していることだ。110万人以上が殺害されたアウシュビッツ絶滅収容所なので、毎日誰かしらの誕生日であり、毎日誰かしらが殺害されたり死亡したりしていた。
映画「シンドラーのリスト」での、ユダヤ人の名前と囚人番号などをナチスドイツの親衛隊やユダヤ人警察が丁寧に聞き取って、書き取っているシーンを見たことがある人が多いだろう。ナチスドイツは逮捕して収容したユダヤ人のリストを緻密に作成していた。ナチスは敗戦が色濃くなると、多くの書類を焼却したり絶滅収容所の施設を破壊しようとしたりした。それでも残った犠牲者の情報や写真、データはきちんと保存されており、デジタル化されて、戦後70年以上が経過した現在、ツイッターを通して後世に伝えられている。
1944年7月には国際社会からの批判でハンガリーからのユダヤ人移送は停止に
そして2021年11月6日のアウシュビッツ博物館のツイッターでは、1942年11月6日にハンガリー北部のシャートラルヤウーイヘイで生まれたユダヤ人の女の子バレリア・ヘイマンを紹介していた。バレリア・ヘイマンは1944年5月にアウシュビッツ絶滅収容所に移送されて、到着と同時に「選別」されて1歳でガス室で殺害された。
ハンガリー政府は長い間ナチスに抵抗していたが、1944年になるとユダヤ人迫害が猛威を奮い、徹底的なユダヤ人差別の法律が100以上もできた。1944年4月から5月にかけて、ハンガリー全土で数十万人のユダヤ人が連行され、工場跡地や、ユダヤ人コミュニティの建造物、シナゴーグに押し込められた。そして最終的にアウシュビッツ絶滅収容所に移送されて殺害された。
1944年にはハンガリーからのユダヤ人移送は世界中に報道された。この時は絶滅収容所での殺害はあまり知られていなかったがルーズベルト米国大統領、バチカンのローマ教皇ピウス2世、スウェーデンのグスタフ国王、国際赤十字総裁から抗議の声明が出された。対独協力のハンガリー政府はドイツ側の労働力提供の要求に応じているだけと強調したが、国際的な批判の高まりから1944年7月にユダヤ人の移送を停止した。だが地方のユダヤ人の移送はほぼ終わっていたため、免れたのはブダペストの一部のユダヤ人だけだった。ハンガリー北部の地方出身のバレリア・ヘイマンらは移送停止前の1944年5月にアウシュビッツ絶滅収容所に移送されてしまった。
映画『ウォーキング・ウィズ・エネミー/ナチスになりすました男』(原題:Walk with the Enemy)はナチス支配下のハンガリーでのユダヤ人を描いた内容だが、そこでもユダヤ人を「黄色い星の家」と呼ばれる1つの建物に収容しているシーンがあり、それはポーランドのゲットーとは違ったものだった。ブダペストには外国の特派員や外交官たちが生活していたから、ユダヤ人迫害の真実を隠すために、ドイツ軍はブダペストにはゲットーを作らないようにした。そのためハンガリー系ユダヤ人は強制収容所に移送されてからも、他の国から移送されてきたユダヤ人と違って収容所での生活に馴染むことができずに苦しんでいた。
ある程度の年齢にいってから殺害された人たちは、職業や卒業した学校、家族関係なども記録されていることも多い。だが1歳のバレリア・ヘイマンは、そのようなパーソナルヒストリーは残っていない。それでもこのように写真と名前が残っているだけでも奇跡的な方である。ユダヤ人でさえなければ、殺害されることもなかっただろう。そして2021年11月6日には79歳の誕生日を迎えた元気なハンガリーのおばあちゃんだったかもしれない。
ドイツの敗戦が濃厚になってきた1944年11月にはヒムラーは証拠隠滅のためアウシュビッツのガス室と焼却炉の解体を命じた。その後、終戦間際まで赤ちゃんや子供はガス室で殺害するのもコストがかかるので殴られたり、叩きつけられたりしてて殺害されていた。
ホロコースト生存者でノーベル平和賞を受賞したエリ・ヴィーゼルはボストン大学の授業で「ホロコーストで殺されたユダヤの子供たちの名前を今から私が死ぬまで読み続けても、リストの最後にたどり着く前に私は死んでしまうでしょう。そのくらいたくさんいました。でも彼らの名前を思い出してやることぐらいはしてやらないと。あの子たちの多くは墓標すらないのです」と語っていた。エリ・ヴィーゼルも母と妹をガス室で殺害された。
▼映画『ウォーキング・ウィズ・エネミー/ナチスになりすました男』