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井上尚弥戦で番狂わせを狙うカシメロ陣営のプロモーターはパッキアオで成り上がった?

三浦勝夫ボクシング・ビート米国通信員
昨年サーマンに勝ったパッキアオ。後ろスーツ姿がギボンズ氏(写真:AFP/アフロ)

カシメロのデモンストレーション

 COVID19(新型コロナウイルス感染症)の影響で自宅での練習を強いられているWBOバンタム級王者ジョンリール・カシメロ(フィリピン)の映像が発信された。それを見る限りカシメロは相変わらず元気溌剌としている。大きなサンドバッグ打ち、周囲のかけ声に合わせたエネルギッシュなシャドーボクシング。「よし、いいぞ。コロナウイルスをぶっ殺せ!」と檄を飛ばすのはプロモーターのショーン・ギボンズだ。

 場所はラスベガスのギボンズ氏の自宅(今回カシメロのために借りた一軒家の可能性もあり)。マイアミから3月半ばにラスベガスへ移動したカシメロは4月25日に同地で予定されたWBAスーパー・IBFバンタム級統一チャンピオン井上尚弥(大橋)との対決に備えてトレーニングを行っていた。フィリピンからトレーナーも合流しテンションが高まっていたところに襲いかかったCOVID19の流行。そのまま居座り井上戦のスケジュールが立たないまま英気を養っている。

 陰ひなたなくカシメロをサポートするギボンズ氏(53歳)はWBO王者にとり打倒井上に向けてのエンジンのような男に映る。もしカシメロがモンスターを破るサプライズを起こせば、その功績が絶賛されるに違いない。そして筆者にとっても忘れられない人物の一人なのだ。

ラスベガスで井上戦に備えて特訓を続けるカシメロ(写真:Team Casimero)
ラスベガスで井上戦に備えて特訓を続けるカシメロ(写真:Team Casimero)

会場で殴られかけた……

 米西海岸の老舗アリーナ、ザ・フォーラムは1990年代末期まで隔週月曜日に定期興行を開催していた。私は当時このイベントを取材することをライフワークにしようと車で片道約2時間半かけてせっせと出かけていた。そして同じロサンゼルス地域のもう一つの大アリーナ、アローヘッド・ポンド・オブ・アナハイム(現ホンダ・センター)でもザ・フォーラムの興行が時々、開催されていた。しかし1999年11月29日のカードを最後に打ち切られてしまった。

 それから少し経った時だと記憶しているからおそらく2000年代に入ってまもなくだったと思う。地元のプロモーターがアローヘッド・ポンド・オブ・アナハイムで試合を開催した。「大アリーナでボクシングが再開。メインは世界ランカー出場」ということで私は居ても立っても居られなくなり足を運んだ。ただそのプロモーターはメディアを冷遇することで有名でリングサイドのカメラマン席まで客を入れる。仕方なく私はコーナーの隅っこ、ほとんど選手のセコンドと変わらない位置で試合を撮影し始めた。

 前座カードがスタートして少し経過した時だった。ダーッと音がして10人ぐらいの集団が接近してきた。その先頭の男が私に「こら何をしている、早くどけ!Get out!」とすごい血相で怒鳴り散らす。「私はメディア、写真を撮っている……」と説明しても聞く耳を持たない。どうやら他の人々は彼の家族と友人らしくリングサイドを占領しようとしたら余計な人間(私)がいて邪魔だと思っているようだ。

 そうこうしているうちに彼の拳が振り上げられ「これはマズい」とガードを固めたところに「ちょっと待て!」と声がかかった。警備員と知り合いの記者が彼をたしなめてくれて私は救われた。「わかったよ、まあしょうがない」と渋々、私を元のポジションに戻してくれたのが他ならぬギボンズ氏であった。

負け役のマネジャーから出発

 瞬間湯沸かし器と思えた彼のことは、それ以前から少し知っていた。主にトップランク社のイベントで主役選手の引き立て役、平たく言えば噛ませ犬を連れてくる役目を担っていた。当時、地盤は中西部かオクラホマ州あたりと想像していたが、今回ボックスレク(記録サイト)でチェックすると本当にオクラホマ出身だった。

 その後もテレビで彼の姿を何度か見かけた。いつも日本流に言えば「青コーナー」のセコンド。「頑張ってるなあ。でも前と変わらない」という印象しかなかった。それが少しずつ変わり出した。メキシコの試合を取材に行き、勝利者とチームの写真を撮った時、ファインダーの中に彼が入っていた。目が合うと、照れながらサムアップの仕種。私をぶっ飛ばそうとしたことを思い出したのかもしれない。

 米国人のマネジャーがメキシコへ選手を連れて行くのは負け役を引き受けるのに等しい。酷評すればドサ回りである。そんな苦労を味わいながらもギボンズ氏は業界に存在感を浸透させていった。転機となったのは現役最強の呼び声高い現ライト級統一王者ワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)に体重オーバーながら土をつけたメキシコ人オルランド・サリド(元WBOフェザー級&スーパーフェザー級王者)を獲得したことだろう。いつの間にか彼は「赤コーナー」のマネジャーになっていた。

パッキアオの右腕に出世

 同時にフィリピンルートの開拓が彼を著名業界人に押し上げた。何といってもマニー・パッキアオの右腕となったことが大きい。それまでパッキアオのビジネス・マネジャーはマイケル・コンシュという人物が務めていた。この人は主にフィリピンでの“お目付け役”の役目を担っていたが、話を聞かなくなって久しい。パッキアオ自身が運営するマニー・パッキアオ・プロモーションズ(以下MPと略す)のイベントをユーチューブで観戦した時、「国際プロモーター、マッチメーカー」として紹介されていたのがギボンズ氏。彼の秘書で筆者の知人のハビエル・ヒメネス氏は「ウチの社長はショーンだ」と明言する。

 実際、MP所属のカシメロ、ジェルウィン・アンカハス(IBFスーパーフライ級王者)、マーク・マグサヨ(フェザー級ランカー)、マーロン・タパレス(スーパーバンタム級ランカー)といった看板選手の試合締結に携わっているのがギボンズ氏だ。もちろんマッチメークだけでなく、その後のフォローも同氏の重要な仕事。米国、メキシコのリング上でフィリピン国旗を振りかざし、選手を鼓舞する。昨年12月アンカハスがメキシコで防衛戦を行った日、ニューヨークではタパレスが岩佐亮佑(セレス)とIBFスーパーバンタム級暫定王座決定戦を戦った(岩佐の11回TKO勝ち)。ギボンズ氏はメキシコでアンカハスをサポート。ニューヨークへは長男のブレンダン氏を送り、試合に立ち合わせた。ファミリービジネスを展開するのも同氏の強みである。

息子のブレンダン(右)も父をサポートする(写真:Sean Gibbons)
息子のブレンダン(右)も父をサポートする(写真:Sean Gibbons)

現役時代はライトヘビー級選手

 以前は短気でお調子者の雰囲気だったギボンズ氏だが、業界で揉まれるうちに確固たる地位を築いてきた。同時に以前からの押しの強さ、周囲の雰囲気を盛り上げる旗振り役ぶりは健在。両手をパチーンと叩き「さあ行こう!」というポーズは選手を鼓舞してやまない。繰り返すが、予想絶対不利のカシメロが番狂わせを起こすなら、ギボンズ氏の洗脳によるものが大きいと推測される。井上にとって要注意なのは“ギボンズ・マジック”なのかもしれない。

 選手としてのキャリアはないと思っていたが、ボックスレクで調べると同氏はプロボクサーとして24戦14勝(7KO)7敗(3KO)3ドローの戦績を残している。根っからのボクシング人なのだ。階級はライトヘビー級。もし殴られていたらと想像するとゾッとする。

ボクシング・ビート米国通信員

岩手県奥州市出身。近所にアマチュアの名将、佐々木達彦氏が住んでいたためボクシングの魅力と凄さにハマる。上京後、学生時代から外国人の草サッカーチーム「スペインクラブ」でプレー。81年メキシコへ渡り現地レポートをボクシング・ビートの前身ワールドボクシングへ寄稿。90年代に入り拠点を米国カリフォルニアへ移し、フロイド・メイウェザー、ロイ・ジョーンズなどを取材。メジャーリーグもペドロ・マルティネス、アルバート・プホルスら主にラテン系選手をスポーツ紙向けにインタビュー。好物はカツ丼。愛読書は佐伯泰英氏の現代もの。

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