土手の淵になぜこんなものが?「頭部の無い不気味な石仏」と、その背後に眠る「ただならぬ出来事」藤沢市
【プライスレス藤沢】
~藤沢の魅力を再発見~
藤沢市内で見つけたプライスレスな情報シリーズ(83カ所目)。
台風の影響による悪天候の本日は、「人柱伝説」が残る歴史スポット、藤沢市西俣野にある『瞽女淵之碑(ごぜがふちのひ)』です。
横浜市との市境にある藤沢市西俣野。田畑や圃場が広がる日当たりのよい道を歩いていたとき、工場の手前に2つの大きな石碑を見つけました。
どうやら用水路の改修を記念した記念碑と「暗渠排水(あんきょはいすい/地下を通る水路)」を記念して建てられた碑のよう...。
しかしなぜ“用水路を記念して”わざわざこんなに立派な石碑を立てたのでしょうか...?
周辺を見回すと、奥の方に「瞽女淵(ごぜがふち)之碑」と書かれた白塗り木杭がありました。
そしてその横にはさらにもう1基の石碑が。
「瞽女淵」…
「瞽女」とは一体?
隣に立てられていた案内板には、次のように書かれています。
瞽女淵と土手番さま
むかし境川は、毎年のように決壊氾濫する暴れ川でした。江戸時代、この付近は決壊しては淵となって、村の有志がたびたび埋め立てをしていました。あるとき、瞽女が、この淵に落ちて死にました。それからこの淵を、「瞽女淵」と呼ぶようになりました。「瞽女」とは、三味線を弾いて唄いながら家々を回り、施しをもらい生活していた、目の不自由な女性の旅芸人です。
また江戸時代のあるとき、一人の武士が瞽女淵付近に身を投げました。武士は、自分が死んで土手を守ってやろうと書いた手紙と刀、お金を残していたそうです。村の人々は、この武士を閻魔堂の墓地に葬り、はじめ金沢橋に、その後、瞽女淵の側に移して像をまつり「土手番さま」と呼び、明治時代までは正月(もと十二月)に祭礼を行っていました。土手番さまの像は、地蔵の姿をしていますが、明治時代の廃仏毀釈のときに、頭を壊されたといいます。
なお、土手番さまの墓と刀と称するものは、今日も残されています。ことの真実はともかく、氾濫を繰り返した土手をめぐって、ただならぬ出来事がかつてあったことが想像されます。そして、明治42年(1909)には総合耕地整理が実施され、瞽女淵が埋め立てられたので、大正元年(1912)に記念碑が建てられました。令和2年(2020)2月 藤沢市教育委員会
※廃仏毀釈とは、仏教寺院、仏像、経巻を破毀して仏教を廃すること
参考リンク:人柱になって堤防を守った侍〔瞽女渕(ごぜがふち)の土手番様〕(藤沢市教育委員会公式ホームページ/外部リンク)
「瞽女淵之碑」の脇には、地蔵の姿をした「土手番さま」がひっそりと立っていました。
藤沢市を流れる境川の歴史にまつわる悲しい物語「瞽女淵と土手番さま」。過去に多くの人々が苦しみ犠牲を払ったからこそ、今の安穏な生活があることに気付かされるスポットでした。犠牲者の慰霊のために、一度は訪れたい藤沢市の歴史遺産『瞽女淵之碑』です。
基本情報
『瞽女淵之碑(ごぜがふちのひ)』
住所:藤沢市西俣野(『花應院』近く)
※駐車場は無いため、行かれる際は公共交通機関をご利用ください。
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