「東京五輪でパラグアイの歴史を作る」無名の日本人柔道家がパラグアイに撒いた柔道の“種”と紡がれた絆
日本の裏側にある南米・パラグアイ。直線距離にして約1万8000キロもあり、飛行機だと3回乗り継いでやっとたどり着く。
そんな遠く離れた国から一人の柔道家が、世界選手権東京大会に初出場した。
73キロ級のエドゥアルド・ビジャマジョール。1995年生まれの今年24歳。
試合は1回戦で敗れたが、日本で柔道の世界大会に出られたことで、「夢が叶った」とすがすがしい笑顔を見せる。
「僕は日本が大好き。今回、この世界大会で初めて南米以外の大陸に来ました。もう10年前から東京に来ることをずっと夢見ていました。日本で大好きな柔道を生で見ること、世界大会に出ることもそうです。東京で寿司も食べたくて、めちゃくちゃ食べました(笑)。あと羽賀龍之介選手(100キロ級、旭化成所属、リオ五輪銅メダリスト)と一緒に柔道を見れたことも感激でした」
柔道を始めてから初めて世界大会に出場し、そして憧れていた東京に来ることができたことを心の底から喜んでいた。
するとエドゥアルドがこんなことを教えてくれた。
「僕はずっと日本人から柔道を教わりたかったんです。そのきっかけを作ってくれたのが、隣にいるシンペイ(慎平)です。彼がパラグアイに来てから、いろんなことが変わりました」
取材中の通訳をしてくれた松本慎平さん(29歳)は、教え子のその言葉を聞いて照れ笑いした。
エドゥアルドとは実に2年ぶりの再会だった。
青年海外協力隊としてパラグアイへ
松本さんは現在、都内のスポーツマーケティング会社に勤務している。
5歳から柔道を始め、高松商業高校時代にインターハイで準優勝。大学卒業後に就職したあとも柔道を教えていたが、2015年から2年間、国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊員として南米・パラグアイへ。
“柔道不毛の地”と言われたパラグアイに派遣され、現地では柔道連盟に所属しながら、初心者に基礎を教え、ナショナルチームの強化にも取り組んだ。
ただ、当初は困難の連続だった。
「柔道というものを一から教えるのはとても大変な作業でした。そもそも柔道着を持っていない選手が多く、日本から新しいものを送ってもらったくらいです。現地で買えるところはありませんからね。そんなレベルから始めたんです」
3カ月くらいしたら、少しは生活環境に慣れるだろうと踏んでいたが、「実際にみんなと溶け込むには半年くらいかかりましたね……。何よりも自分のことを認めてもらうのが大変でした」と振り返る。
「自分は60キロ級なので、体が小さい。それに当時はまだ見た目も若くて、『こいつの言うことは聞けない』という態度の選手が多かったんです。でも、いざ柔道着を着て、僕と対戦したら誰も自分に勝てる選手はいなかった。そしたら次は『じゃあお前は試合に出たらどうなんだ』ってなったんです(笑)」
日本は柔道の宗主国。もちろんパラグアイの選手たちは日本柔道のレベルの高さを知っていたが、日本から突然やってきた柔道家の実力は何もわからないまま。
松本さんはとにかくパラグアイの柔道発展のために努力する姿を見せるしかなかった。
「そしたらアルゼンチン人やブラジル人に勝ってみろよって言うんです。実際に試合にエントリーして、そこで優勝しました(笑)。それくらいしないと彼らは言うことを聞かなかったです」
松本さんの実力を知ったパラグアイの選手たちは、一気に見る目が変わったという。
「僕も決して多くは語っていなかったですけれど、みんな本当によく見ているんですよね。見られているんだなというのは気づいていましたし、自分が良い行動をすれば、それをみんなが感じ取ってくれるだろうと思いながらやっていました」
松本さんの教えは結果として現れる。
パラグアイに赴任して1年を迎えた2016年。強豪ブラジル、アルゼンチン選手を倒してパラグアイから南米王者が誕生した。その2カ月後にコロンビアで開催された15歳以下の南米大会では出場した6人全員がメダルを獲得した。
その過程で台頭してきたのが、今回世界選手権に出場したエドゥアルドだった。
パラグアイの柔道人口は300人
「僕は日本人が柔道を教えに来てくれると聞いたときは、本当にうれしかった。やっと本格的な柔道が習えるとすごく興奮したのを覚えています」
エドゥアルドはそう興奮気味に語っていたが、松本さんが来たことでより一層、柔道に専念するきっかけをつかむことになる。
彼が柔道を始めたのは16歳のときだ。
「小さいときから空手をやっていたのですが、高校に行くために勉強をしなければならなくて、スポーツはやめないといけなかったんです。でもやっぱりスポーツをしたくて、何かをやろうと思っていました。同時に五輪にも憧れていたので、やるなら何がいいかと考えていたとき、柔道というスポーツが自分を引き付けました。柔道は五輪競技。そこに出場したいという思いがありました」(エドゥアルド)
現場にいたパラグアイ柔道連盟の会長によれば「パラグアイの柔道人口は300人程度」だという。
同国の人口は約680万人だが、それに比例して正直、もう少し多いと思っていたので驚いた。
松本さんは「パラグアイはまだ貧困層が多く、スポーツをやっている子どもは少ない。それに同国の人気スポーツといえばやはりサッカーですから」と語る。
元々、パラグアイには日本からの移住者が多く、現在は約8000人の日系人が住んでいると言われている。
松本さんは「そうした日系人たちが現地で柔道をしているんです」とも教えてくれた。
同国の貧困層は全人口の3割と言われており、柔道をやっている子どもたちは貧しい家で育っているのが現状だ。
突如消えたリオ五輪への切符
ただ、そうした貧困の中でも夢は持つことはできた。特に松本さんが1対1で猛特訓したのがエドゥアルドだった。
「当時、彼の柔道は正直、世界大会で勝てるレベルではありませんでした。ですが、彼は2016年のリオデジャネイロ五輪の代表候補選手でした。五輪に出るのが夢という彼の思いを共に叶えるために、1対1で向き合いました。彼もそれに応えてくれた。当時、自分と同じ階級(エドゥアルドの本来の階級は60キロ級)だったので、基本的な練習から打ち込み、試合形式の練習もずっと付きっきりでした。とにかく五輪に出て、1回戦で勝つという強い気持ちがあれば可能性はなくはないかなと思っていました」
そうした矢先に事件は起こった。
リオ五輪まで1カ月を切ったとき、リオ五輪の「招待枠」がなくなったという知らせが届いたのだ。
松本さんが当時の出来事を教えてくれた。
「招待枠を柔道連盟の会長がほかの種目に(お金で)売ったという話を耳にしました。正直、詳細はわかりません。それで土壇場で五輪に出られなくなったんです。彼は五輪に出るために、毎日練習する必要がありました。それで大学を休学し、朝早くから練習にきて、昼間は働いて、また夕方に練習に来ていました。それくらい彼は五輪に出たかったし、自分もその思いをぶつけました。なのにそんなことになるとは思ってもいませんでした」
松本さんよりも、当の選手のほうが大きなショックだったのは言うまでもない。エドゥアルドが当時の心境を語ってくれた。
「とても胸が痛かったです。五輪に出るのが夢でしたから。夢は所詮、夢にすぎないのかと……。柔道を始めるきっかけになった五輪が目前まできていたのに、それがなくなったのはショックでした」
そんなショックは徐々に怒りに変わった。選手たちは会長の退陣を求めるデモを起こしたのだ。
するとその行為が会長の逆鱗に触れ、デモに加わったエドゥアルドは連盟から除名された。
松本さんが語る。
「エドゥアルドはそれからどの試合にも出られなくなりました。それで気持ちが完全に折れてしまい、練習をする気もなくなってしまったんです。彼の姿を見ているのはつらかったですね」
夢だった五輪出場が目前で断たれてしまったことで、何も手につかなくなってしまった。
松本さんはパラグアイに赴任した2年間で明るい光を見る一方で、権力とお金による暗い裏社会の世界も同時に見たわけだ。
パラグアイにできた「SHIMPEI JUDO CLUB」
パラグアイ柔道界の行き先が見えないまま、派遣期限だった2年が過ぎて日本に帰国。その間、現地で柔道を教えた人たちの顔を忘れたことは一度もなかった。
「自分が帰国したあとも柔道を続けてもらえるのかが心配でした。自分が教えたたった2年間で、継続するのはとても難しいはずですから」
そんなとき2018年にパラグアイ柔道連盟の会長が新たに交代したと聞き、教え子のエドゥアルドも再び五輪出場に向けて本格的に柔道を始めたことを知った。
「最後はバラバラになった連盟が再び復活し、今でもこうして柔道を続けてくれているのがうれしい。自分が帰国したあとに、彼らが柔道を続けていくにはどうしたらいいんだろうとずっと考えていましたから。とにかく『自分で考えて継続すること』を口をすっぱくして伝えました。そうじゃないと僕が帰ったあとに何も残らない。自分がいないと何もできない選手じゃ困るので」
パラグアイ柔道連盟と監督、エドゥアルドが世界選手権で東京に来ることを知り、再会を楽しみにしていたころ、もう一つうれしい知らせが舞い込んだ。
2019年5月、パラグアイの首都・アスンシオンに松本慎平さんの名前がついた「SHIMPEI JUDO CLUB」ができたのだ。
「シンペイが世界で一番の柔道家」
「まさか自分の名前を付けた柔道場がパラグアイにできるなんて思ってもいませんでしたよ」
パラグアイを離れて2年以上も経つにもかかわらず、自分のことを忘れずに柔道を続けてくれていることに驚きを隠せなかった。
「僕がパラグアイで2年間、柔道を教えていた子どもたちのお父さん、お母さんたちが道場を始めてくれたそうです。パラグアイの貧困な子どもたちのために無料で開放している柔道場です。コーチを雇うとお金がかかるので、僕が当時、教えていた14~15歳の子どもたちが今成長して、5~6歳の子に柔道を教えているんだそうです。これは自分のアイデアでもありませんし、自分が何かを言ったわけでもないのに、日本の裏側のパラグアイで、自分の名前を冠にした道場ができたと聞いたときは本当にうれしかった。私がパラグアイから日本に戻ってきて、まさかそんなことが起こるとは思っていませんでした」
機会があれば自分もそこに行ってみたい、という松本さん。今ではこの道場からメダルを獲得する子どもたちが次々と出てきているのもうれしい知らせだ。
「スペイン語も流ちょうではないのに、それなりに彼らはいろんなことを感じてくれていたんだなと思うと感無量です」
そんな松本さんの思いに応えるためにも、エドゥアルドは新たな目標を掲げている。それは「東京五輪の出場権を勝ち取ること」だ。
さらに彼にはもう一つ、夢がある。
「五輪で1回戦を勝利して、パラグアイの柔道界に新たな歴史を作りたい。足跡を残して帰りたい」
過去、パラグアイの選手は世界選手権やロンドン五輪にも出たこともあるが、まだ誰も1回戦で勝ったことがないという。
「得意技は袖釣り込み腰と小内刈」というエドゥアルド。技のキレをもっと磨き、1年後の東京五輪では夢の1回戦突破を狙っている。
「自分が勝てば、パラグアイで柔道をする子どもたちにもいい影響を与えられるし、夢にもなると思う。諦めずに夢を追うきっかけを作ってあげたい」
こうして松本さんが紡いだパラグアイでの柔道の輪は、今も現地でどんどん大きくなっている。
最後にエドゥアルドにこう聞いてみた。
「松本さんはあなにとってどんな存在ですか?」
すると間髪いれずに「練習が厳しかったから、ワルイ!」と笑う。そして言葉をつなげた。
「日本にはいろんな有名な柔道家がいるけれど、僕にとってはシンペイ(慎平)が世界で一番の柔道家だよ」
遠くを見つめる松本さんの目には、涙がにじんでいた。