熊本県の気象・地震業務開始と阿蘇山の監視業務の開始
現在は、地震や気象などの観測・情報発表体制が整っていますが、熊本県に気象台に相当する測候所が作られたのは、明治23年2月1日のことです。
設立のきっかけとなったのは、明治22年(1889年)7月28日に発生した明治熊本地震とこの年の天候不順による災害です。
また、阿蘇山を監視する観測所が作られたのは昭和6年11月1日ですが、これは、昭和3年12月下旬から始まった阿蘇山噴火を受けてのことです。
明治熊本地震と測候所の設置
明治22年7月28日に熊本地震が発生し、大きな被害が発生した時、熊本県には地震や気象を観測する組織はありませんでした。明治20年10月にできた「気象台測候所条例」では、全国の地方測候所(現在の地方気象台)の位置指定が行われ、暴風警報発表などの気象業務を行うために必要な測候所をリストアップの中に熊本市も入っていましたが、測候所は設立されていません。
明治20年当時、中央気象台が東京にあり、その指導をうけている測候所が全国に29か所設立されていただけです。というのも、中央気象台は国の予算(国税)でしたが、予算不足から測候所は各府県の予算(地方税)というものだったからです。
このため、地方議会では「測候所は中央気象台のために設置するもので、その恩恵は期待する程のものではないから、なるべく延期」という消極論と、「地元のためになるから予算を増額してでも設立」という積極論で紛糾しています。
このため、明治21年の測候所設立は、北海道の上川(現在の旭川)だけで、明治22年の測候所設立は長野、福島、山形、三重県の津、北海道の網走と釧路とゆるやかなペースでした。
明治23年に設立された測候所は、松山、福岡、熊本、那覇、名古屋、佐賀、宇都宮、岡山とややペースがあがっていますが、このうち、松山、熊本、名古屋の場合は、いずれも災害によって県議会の決定が促進されています。
気象庁が昭和50年に編纂した「気象百年史」によると、
熊本測候所は、「明治22年の気候不順及び同年7月28日の明治熊本地震被害 (死者20人,全壊家屋200戸)によって、測候所設立が可決され、23年2月1日に開設」となっています。
明治22年7月31日の読売新聞には、熊本地震後の洪水の記事を載せていますが、同じ紙面に、長崎県の厳原測候所の器械損傷の調査を行っていた中央気象台の馬場信倫が地震の実況を視察するとの記事があります。また、後に「事実無根の由」ということで取り消されるのですが、9月20日の紙面では熊本測候所設置を計画しているという記事が載っています。
いろいろな経緯があったと思われますが、熊本地震の約半年後の明治23年2月1日、熊本市被分町に熊本県立熊本測候所(現在の熊本地方気象台)が創立され、気象観測業務を開始しています。
噴火と噴火の間に天皇陛下が阿蘇に御登山
熊本測候所が創立の約1ヶ月前(明治熊本地震の約5ヶ月後)、熊本県は地震が頻発し、阿蘇山が大噴火する前兆ではないかと恐れられています。
しかし、大規模な阿蘇山噴火は約30年後の昭和3年(1928年)12月から昭和4年にかけてです。
阿蘇山の噴火を受け、昭和6年11月1日に、阿蘇山白水村に熊本測候所・阿蘇山観測所が設置となっていますが、この頃になると、火山活動は沈静化し、昭和天皇が御視察されています。
天皇陛下が御登山された昭和6年の阿蘇山は平穏でしたが、昭和7年7月には3年ぶりの噴火となり、特に12月24日からの噴火は約150年前の安永七年(1772)から同九年にかけての大爆発以来という大噴火となっています。
そして、この時の様子は、熊本測候所や阿蘇山観測所で詳しく観測されています。阿蘇山観測所の窓ガラスは噴火に伴う空気の振動で割れたと言われていますので、危険を伴いながらの観測でした。
現在の火山観測
阿蘇山観測所は、昭和14年11月に阿蘇山測候所に昇し、その後も阿蘇山についての詳細な観測記録を残しています。
平成21年10月の組織改革で、阿蘇山測候所は阿蘇山特別地域観測所になり、火山業務は、福岡管区気象台火山監視・情報センターの下部組織である阿蘇山火山防災連絡事務所が実施し、阿蘇山に各種観測機器を展開しています(図)。
現在は、気象台だけでなく、いろいろな機関の、いろいろな無人観測機器が阿蘇山に展開し、それらの観測データは交換されています。無人ですので、危険な場所で、その機器が壊れるギリギリまで観測を継続することが可能となっていますので、阿蘇山に何か異変があれば、素早く情報が発表されます。