Yahoo!ニュース

漫画『5五の龍』に出てくる戦法採用? 羽生善治九段、相中飛車「見せ槍銀」で菅井竜也八段に勝利

松本博文将棋ライター
(記事中の画像作成:筆者)

 7月30日。静岡県静岡市・ツインメッセ静岡において第43回将棋日本シリーズ・JTプロ公式戦1回戦▲菅井竜也八段(30歳)-△羽生善治九段(51歳)戦がおこなわれました。棋譜は公式ページをご覧ください。

 15時30分に始まった対局は17時3分に終局。結果は128手で羽生九段の勝ちとなりました。

 羽生九段はこれで2回戦進出。9月23日、北海道にて藤井聡太竜王と対戦します。

驚きの相中飛車

 対局開始前、両対局者はお互いの印象を次のように語りました。

羽生「菅井さんは振り飛車党で、非常に力強い将棋を指すという印象があります」

菅井「すごい強い先生です」

 振り駒をおこなうのは抽選で選ばれたファン。その結果、菅井八段の先手と決まりました。

 3手目。菅井八段は盤上の中央に飛車を振ります。得意の中飛車に構えました。

 対して羽生九段も6手目、さっと飛車を5筋に移動。戦型は非常に珍しい「相中飛車」になりました。解説の島朗九段と室谷由紀女流三段も驚きの声をあげます。

室谷「先生、これはすごい珍しい戦型になりましたか」

島「室谷さん、すみません、私(この戦型について)全然知らないんでよろしくおねがいします」

室谷「先生、私も専門外でございまして」

 解説陣の驚きの声が、意外さを物語っています。

菅井「今日はこういう戦型はまったく予想してなかったので。ちょっとびっくりしました」

 局後に菅井八段もそう語っていました。

ここでレアな戦法、相中飛車について触れておきます。

 つのだじろうさん作『5五の龍』では作中、奨励会幹事の棋士が相中飛車について次のように語っています。

「珍しいな 専門家の対局では まずお眼にかからない戦法だ!」

「当然だろう 相中飛車で双方同型の駒組みになっていけば仕掛けた方が悪くなる・・・ いわば千日手模様になる公算が大きいから・・・ 専門家はこういう指し方はさけるんだ」

(出典:つのだじろう『5五の龍』中公文庫コミック版第5巻229p)

「本格将棋まんが」と銘打たれるだけあって、この見解は説得力があります。常識ある大人であれば、そんなことを言うでしょう。しかしそうであっても、将棋好きの少年、少女たちにとってはロマンあふれる戦型に違いありません。

 実は羽生九段は小学生時代、森内俊之少年(現九段)を相手に相中飛車をやっています。同世代の村山聖九段(故人)は、両者のライバル意識と負けん気の強さを表わすエピソードとして、その話を引いています。

こんな話も耳にしました。まだ小さい頃、両者が対戦する機会があって、その時に森内さんが初手▲5八飛としたら、羽生さんも△5二飛とすぐ指したという逸話があるくらいですから。とりあえず、宿命の対決と言っておきましょう。

(出典:村山聖『将棋マガジン』1996年6月号)

 羽生九段は少年時代、『5五の龍』を愛読していました。1995年、六冠を保持していた当時、次の一文を寄せています。

私自身『5五の龍』は、奨励会時代に夢中になって読んだ記憶があり、当時奨励会を受験した少年のほとんどが『5五の龍』に刺激を受けてプロを目指したものでした。『5五の龍』が長い期間に亘って将棋ファンの心をとらえて放さないのは、漫画の登場人物と実在の人物をうまくマッチさせ、読者によりリアリティーを感じさせたところにあると思います。

(出典:羽生善治「私の奨励会時代と『5五の龍』」中公文庫コミック版第1巻所収)

 羽生九段は本局に臨むにあたり、そうした少年時代の記憶はよみがえったのでしょうか。「史上最強」とも言われる実績を誇り、常に本格正統派でありながら、ときに観戦者をあっと驚かせる構想を見せるのも、変わらぬ羽生九段の魅力です。

 ちなみに「じっと我慢のボンカレー」なども『5五の龍』由来の言葉です。

 プロ公式戦における相中飛車の有名な一局は、2007年竜王戦七番勝負第6局▲渡辺明竜王-△佐藤康光挑戦者戦が挙げられます。そちらでは序盤の駆け引きの末、相中飛車になりました。

ちょっとやそっとでは佐藤将棋に対して驚かない抗体が出来ていると思っていたが、これには言葉がない。覚えたての子供が指しているのではない、これは竜王戦七番勝負。前代未聞の相中飛車である。

(出典:高野秀行、観戦記)

 独創的な棋風である佐藤九段が指してもやはり、観戦者は驚くわけです。

 実はつい先日、7月24日に放映されたNHK杯1回戦▲里見香奈女流四冠-△今泉健司五段戦も相中飛車でした。

 もしかしたら時代は進み、相中飛車は現代の最先端なのかもしれません。

驚きの「相見せ槍銀」

 菅井八段の指し手に対して、羽生九段は同じように進めていきます。そして互いに中飛車で、居玉のまま中段に銀を2枚進める布陣。漫画にすぐ影響を受ける子供同士の対局であっても、めったに見られないような布陣となりました。

 実は前述の『5五の龍』には、本局と似た形が出てきます。奨励会での対局。主人公・駒形竜(こまがた・りゅう)の得意戦法である中飛車を破るため、虎斑桂(とらふ・かつら)は相中飛車から「見せ槍銀」という作戦を創案しました。対局中、女性奨励会員の虎斑さんは次のように語っています。

これから死刑を執行する・・・という合図に 罪人の面前で 二本の槍をチャリン! と交差させて見せるのを・・・「見せ槍」とよんだのよ! 盤上の敵の駒を罪人に見たてれば この銀はまさに左右から槍をつき出し・・・ 罪人に死刑のカクゴを決めさせる「見せ槍」の形に似ている それで「見せ槍銀」とよばれるのよ!!

(出典:つのだじろう『5五の龍』中公文庫コミック版第5巻226p)

 ずいぶんと物騒なことを言っていますが、それが戦法名の由来だそうです。中にはこの漫画に影響を受け、マネして指した人も中にはいるのかもしれません。現代最新のコンピュータ将棋ソフトによれば、2図は形勢まったく互角。相手の得意を封じてる分だけ、後手の気分がいいのかもしれません。

 また作中、高校1年の桑野舞子さんも「見せ槍銀」の使い手として登場します。駒形くんとの対戦は「相見せ槍銀」となりました。

 驚いたことに本局は桑野-駒形戦とだいぶ似た立ち上がりです。タイトル経験者同士というトップクラスの対戦で、かつてこのような進行はあったでしょうか。将棋界では、現実が創作を追い越してしまうという例はしばしばあります。本局などもそうかもしれません。

 羽生九段が22手目、銀を上がって「相見せ槍銀」になった局面で、いったん休憩。本棋戦恒例の次の一手予想クイズのため、菅井八段が次の手を封じました。

 再開後の23手目、菅井八段は振り飛車らしく、右側の方に玉に移動させます。対して羽生九段は角がいる左側に玉を移動。こちらは居飛車の感覚に近い布陣といえそうです。

羽生九段、攻防ともに自在の指し回し

「まさか!? この形から穴熊にしようというのか? それは常識はずれの手じゃあないか?」

 桑野舞子さんが「見せ槍銀」から穴熊を組もうとしたのを見て、駒形くんはそう驚きます。しかし本局、菅井八段はそれと同じ構想を見せました。

 羽生九段もまた穴熊に組もうとします。そこで菅井八段は駒組ではなく、動きを見せてけん制しました。

菅井「ちょっと積極的にいってみようかなと思いました」

羽生「あまりゆっくりしてると、どんどん押さえ込まれそうなんで」

 羽生九段は銀をガツンと前に進め、いよいよ戦いが始まりました。

羽生「あまり見たことのない形になったんですが。ちょっとだけなんかこっち、囲いきれてない状態で戦いになってしまったんで。ちょっと手が遅れてしまったかなあ、と思いながら指してました。ただ、ずっとよくわからないというところですかね」

 羽生九段は菅井陣の穴熊を薄くします。対して菅井八段は羽生陣の上部から反撃。羽生玉に照準を合わせながら飛車を合体させ、中盤の段階ではあまり見たことのないような穴熊を作りました。

「見せ槍銀」も珍しい形ですが、この穴熊もまた珍しい形です。

羽生「いやあ、居飛車ではあるんですけど、ちょっと穴熊でやられたのは初めてで」(笑)

 攻めを催促された菅井八段。強く踏み込んでいきます。しかし羽生九段は的確な受けで対応。形勢は羽生よしとなりました。

菅井「すごい変わった将棋になったんですけど、もうちょっと控えめに指した方がよかった気がしました」

 菅井八段は少し苦しいところから、迫力ある追い込みを見せました。対して羽生九段は攻防ともに緩急自在の指し回しで、逆転の余地を与えません。

 最後は羽生玉に寄せがなく、菅井玉が受けなしの形に。菅井八段が投了し、大きな拍手の中、対局が終了しました。

 両者の対戦成績はこれで羽生6勝、菅井8勝となりました。

 観戦者をうならせる構想から勝利に結びつけた羽生九段。次の藤井竜王戦は、大変な注目を集めそうです。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

松本博文の最近の記事