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五奉行の浅野長政は、豊臣秀吉ともっとも近い関係にあったので登用された

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、五奉行の面々がようやく出揃った感がある。そのうち五奉行の浅野長政は、豊臣秀吉ともっとも近い関係にあったので登用されたといわれているが、その前半生を取り上げることにしよう。

 浅野長政の出自については、寛政年間(1789~1801)に江戸幕府が編修した『寛政重修諸家譜』が基本史料になろう(完成は文化9年・1812)。

 天文16年(1547)、長政は安井重継の長男として、尾張国で誕生した。母は、浅野長詮の娘だった。長政は通称は弥兵衛尉といい、初名は長吉である。

 長政と名乗ったのは慶長4年(1599)4月からであるが、煩雑さを避けるため、以降も長政で表記を統一する。その後、長詮の子・長勝に子がなかったため、その娘・やや(彌々)の婿養子として浅野家に入ったといわれている。

 『浅野考譜』によると、長勝には男子が1人いたが、信長に従って和泉国に赴き、岸和田城で早世したという。信長が和泉国に関わったとするならば、上洛した永禄11年(1568)10月以降になろう。年代的には矛盾しないが、やはり長勝の実子については不明ことばかりである。

 なお、『浅野考譜』では長吉の初名を長継とし、永禄11年(1568)3月に婿入りしたとあるので、長勝の男子が亡くなった時期と矛盾があるように思える。

 父の重継は重幸の子(あるいは孫)で、宮後城(愛知県江南市)主だったといわれているが、その生涯には不明な点が多い。重継の姉は、蜂須賀正利の妻だったという。

 安井家の先祖をたどると、清和源氏・源頼義の流れを汲むというが、単なる箔付けに過ぎない可能性が高い(『浅野考譜』)。重継自身は、近江小谷(滋賀県長浜市)の出身であると書かれている。

 長政の養父・長勝は生年不詳で、その生涯を物語る史料は乏しい。父・長詮の生涯についても不明である。

 浅野氏は、現在の愛知県一宮市の浅野付近を名字の地としていた。『信長公記』首巻には、弓衆の1人として「浅野又右衛門」の名が記されている。この人物こそが長勝である。

 長政は長勝の家にいた秀吉と兄弟の契りを結び、信長の弓衆になったという。その後、信長の命により、秀吉の配下に属した(『浅野系図』など)。

 周知のとおり、秀吉の妻のねね(おね。高台院)は、杉原定利の娘だったが、のちに浅野長勝の養女となった。秀吉と長政が兄弟の契りを結んだのには、そうした関係も作用したのだろう。

 つまり、長政が秀吉に重用されたのは、浅野家に婿入りしたからだった。秀吉と相婿になった長政は、秀吉の出世に伴って、ますます重用された。むろん、長政には才覚があったので、五奉行に用いられたのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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