高い致死率の「狂犬病」への警戒を怠ってはいけないワケとは?
日本では長く発生していない狂犬病だが、世界的には重大な脅威のままだ。イヌ以外の動物からの感染の危険性もある狂犬病。世界の状況と日本国内の危機管理の重要性を考える。
ワクチン接種は飼い主の義務
狂犬病は、狂犬病ウイルス(Rabies Virus)の感染による人獣共通感染症で、イヌ、ネコ、コウモリ、ウシ、フェレット、キツネ、アライグマといった哺乳類(鳥類にも感染、齧歯類の感染はまれ)の神経系や脳に炎症を引き起こす致死性の高い病気だ。
狂犬病のヒトヒト感染は確認されていないが、発症後ほぼ100%死亡する。これらの動物にかまれた後、ただちにワクチンを接種すれば発症を抑えられることもあるが、吸血性のコウモリにかまれることによる感染の場合、気がつきにくく、知らないうちに発症してしまうことも多い。
発症後の致死率はほぼ100%であり、ウイルスを持つ危険性のある動物にかまれたり、出血した傷口がウイルスを持つ危険性のある動物に触れたりした場合、すぐに傷口を洗浄して治療を受けるべきだ(※1)。
このように致死率の高い狂犬病は、感染した動物がすぐに死ぬために継続した感染ができにくい感染症とされ、70%のイヌにワクチンを接種させることができれば根絶させられると考えられている(※2)。また、狂犬病ワクチンにより、他の感染症への保護効果を指摘する研究もある(※3)。
国内ではイヌにかまれる事件が頻繁に起きている一方、義務になっている飼いイヌへの狂犬病の予防接種率の低さが問題視されている。
狂犬病予防法により、イヌの市区町村への登録(登録はネコも)、そしてイヌに対する狂犬病ワクチンの予防接種は飼い主に年1回が義務づけられているが、約3割のイヌが予防接種を受けておらず、接種率が50%台や60%台の県もある(厚生労働省、令和4年度「都道府県別の犬の登録頭数と予防注射頭数等」)。
狂犬病は依然として脅威のまま
日本国内でのヒトと動物における狂犬病の発生例は1957年のネコが最後だが、海外でイヌにかまれるなどして国内で狂犬病を発症した事例は依然としてある。2006年にはいずれもフィリピンでイヌにかまれた日本人の男性2人が狂犬病にかかって死亡、2020年5月にはフィリピンでイヌにかまれて感染したとみられる外国籍の人が確認されている。
まだ、世界の2/3以上の国や地域で狂犬病が発生している。世界では毎年、6万人以上が狂犬病により亡くなっていて、その多くは発展途上国の農村部に住む子どもたちだ(※4)。
国内での感染例ゼロが長く続いているため、コスト・ベネフィットの観点から狂犬病ワクチン接種の見直しが議論され(※5)、SNSなどでワクチン否定論などが出ていたりする。
だが、それに対しては、すでに日本獣医師会が2019年に見解(※6)を出している。その内容は、OIE(世界動物保健機関・国際獣疫事務局)が日本のような狂犬病清浄国に対しても公的なワクチン接種実施を推奨していること、台湾の野生動物で狂犬病が発生したこと、豚コレラの例のように水際の防疫体制は完璧でないことなどからワクチン接種の見直しは時期尚早などだ。
日本へは江戸時代に
古代メソポタミアや古代ギリシャにも文献があることと矛盾するが、分子系統学の分析によれば狂犬病ウイルスの共通祖先は1500年前に出現したと考えられている(※7)。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)がコウモリ由来のウイルスのように、狂犬病ウイルスもコウモリ由来のウイルスから数百年前に分かれ、スカンクやアライグマなどの肉食哺乳類に感染する能力を獲得したようだ(※8)。
狂犬病のなかった日本へ狂犬病が持ち込まれたのは鎖国後の江戸時代と考えられる(おそらく清国から)。蘭学の先駆者とされる江戸中期の本草学者、野呂元丈は1736(元文元)年に『狂犬咬傷治方』を著し、その中で「近年異邦よりこの病わたりて西国にはじまり、中国上方へ移り、近ごろ東国にもあり」と記している(※9)。
1893(明治26)年に長崎県で死者8人という狂犬病の発生例があるが、国内で狂犬病が大流行するのは関東大震災後のこと。全国で3200頭以上のイヌが感染し、ヒトの死者は235人に達したという。
その後、イヌに対するワクチン接種が奏功し、狂犬病の発生を抑え込むことに成功するが、太平洋戦争の敗戦後の混乱期に野犬が増えたことで再び狂犬病が流行する。そして、1950年に前述した狂犬病予防法が施行されてからは、次第に発生がなくなっていき、日本は世界でも数少ない狂犬病の清浄国とされている(※10)。
パスツールの狂犬病ワクチン
狂犬病のワクチンといえば、ルイ・パスツール(Louis Pasteur)と同僚の医師、エミール・ルー(Emile Roux)の業績が有名だ。長く非公開だったパスツールの実験ノートをもとにした伝記によれば、1885年5月に最初の患者に狂犬病のワクチンを、自身は医師でないため、おそらく医師であるルーに打ってもらった。この患者はワクチン接種の20日後に回復して退院したという。
この患者には、狂犬病ウイルスを感染させたウサギの脊髄由来のウイルスを取り出して長期間、乾燥させた弱毒化ワクチンを使った。現在では倫理面から批難される方法だが、イヌでの実験ではまだ成功していなかった方法をヒトに試し、幸い成功したことで評価されたという(※11)。
この後、狂犬病ワクチンは100年以上にわたって改良を重ね、安全性と効果を高めていく。パスツールのワクチンはウイルス感染後に使ったが、狂犬病の流行地域へ渡航する前に予防的にワクチンを接種することも可能だ。日本では2種類のワクチンがあり、種類によって1ヶ月前と6ヶ月前から複数回の接種が推奨されている(厚生労働省「狂犬病に関するQ&Aについて」)。
だが、たとえワクチンを接種しても、狂犬病が流行している地域でイヌや野生動物に接触することは避けたほうがいい。感染したイヌは脳に炎症を起こし、威嚇などの警告なしにいきなりかんでくることがある。
流行地域への渡航以外に日本国内で狂犬病にかかるリスクは限りなく低いが、世界にはまだ広く流行して多くの人の命を奪っている国や地域がある。ヒト用のワクチンは高価で供給量も限定的なので、医療資源の少ない途上国でヒト用のワクチン接種は非現実的だ。
ワクチンのコスト
日本ではイヌの登録とワクチン接種、そして野犬の駆除によって狂犬病の流行を抑え込んだ。だが、前述した通り、イヌの登録やワクチン接種は不完全のままだし、野犬が多い地域もまだある。
また、北米ではアライグマやスカンクなどが狂犬病に感染しないよう、ワクチン入り餌の空中散布も行っているが(※12)、狂犬病ワクチンの場合、途上国ではコストの問題もある。特に、専門家による広範囲への輸送コストの割合が高いことが問題のようだ(※13)。さらに、狂犬病にかかったイヌを殺処分するためのコストも飼い主の心理的な影響も含めて無視できない(※14)。
世界的に新型コロナ・パンデミックがほぼ収束し、狂犬病の流行地域との往き来が増えている。狂犬病に限らず、人獣共通感染症の管理と監視は、コロナ後を見すえて継続的になされるべき公衆衛生上の課題だろう(※15)。
※1:Alan C. Jackson, "Current and future approaches to the therapy of human rabies" Antiviral Research, Vol.99, Issue1, 2013
※2:Robert P. Lavan, et al., "Rationale and Support for a One Health Program for Canine Vaccination as the Most Cost-Effective Means of Controlling Zoonotic Rabies in Endemic Settings" Vaccine, Vol.35, Issue13, 1668-1674, 2017
※3:Darryn L. Knobel, et al., "Rabies vaccine is associated with decreased all-cause mortality in dogs" Vaccine, Vol.35, Issue31, 3844-3849, 2017
※4:Rajendra Singh, et al., "Rabies - epidemiology, pathogenesis, public health concerns and advances in diagnosis and control: a comprehensive review" Veterinary Quarterly, Vol.37(1), 212-251, 2017
※5:Nigel C. L. Kwan, et al., "Benefit-cost analysis of the policy of mandatory annual rabies vaccination of domestic dogs in rabies-free Japan" PLOS ONE, doi.org/10.1371/journal.pone.0206717, 2018
※6:日本獣医師会、「狂犬病ワクチン接種の見直し意見に対する日本中医師会の見解」、日本獣医師会雑誌、第72巻、第4号、2019
※7:A. Susan, et al., "Chapter 11 - Molecular Phylogenetics of the Lyssaviruses - Insights from a Coalescent Approach" Advances in Virus Research, Vol.79, 203-238, 2011
※8:Nai-Zheng Ding, et al., "A permanent host shift of rabies virus from Chiroptera to Carnivora associated with recombination" SCIENTIFIC REPORTS, 7, article number289, DOI:10.1038/s41598-017-00395-2, 2017
※9:松木明知、「『オシャラク』狂犬病説に対する疑義」、日本医史学雑誌、第30号、第3号、1984
※10:岩淵英夫、「狂犬病の流行と予防の変遷」、日獣会誌、第23巻、367-376、1970
※11:Gerald L. Geison, "The Private Science of Louis Pasteur." Princeton University Press, 1995
※12:R C. Rosatte, et al., "High-Density Baiting with ONRB Rabies Vaccine Baits to Control Arctic-Variant Rabies in Striped Skunks in Ontario, Canada" Journal of Wildlife Diseases, Vol.47, Issue2, 459-465, 2011
※13:J L. Elser, et al., "Towards canine rabies elimination: Economic comparisons of three project sites" Transboundary and Emerging Diseases, Vol.65, Issue1, 135-145, 2018
※14:Ewaldus Wera, et al., "Costs of Rabies Control: An Economic Calculation Method Applied to Flores Island" PLOS ONE, doi: 10.1371/journal.pone.0083654, 2013
※15:Akio Yamada, et al., "A Comparative Review of Prevention of Rabies Incursion between Japan and Other Rabies-Free Countries or Regions" Japanese Journal of Infectious Diseases, Vol.72, No.4, 2019