西田直斗選手 「初めて楽しいと感じた」阪神タイガース最後の1年
大阪桐蔭から2011年のドラフト3位で阪神に入団した西田直斗選手(25)は2年目の2013年7月18日、秋田で開催されたフレッシュオールスターゲームに出場。7対1で敗れたウエスタン選抜にあって唯一の打点を記録し、チームメイトからの「優秀選手賞は間違いない」という言葉で、その気になっていたけど選ばれず…。周囲は大爆笑、本人は苦笑いという懐かしい思い出があります。
そのフレッシュオールスターから10日後の7月28日に初めて1軍昇格を果たすと、当日のDeNA戦(甲子園)で5回に代打出場。引き続きセカンドを守ったものの残念ながら2打席で2三振に終わっています。結局、7年間でこの1試合だけだったんですね。2016年のオフに育成選手となり、翌2017年6月19日に再び支配下選手として公示。しかし2018年10月7日に戦力外を告げられました。
ファーム日本選手権で巨人を倒して日本一になり、試合後に矢野監督から「西田と小豆畑がチームを盛り上げてくれたMVP」と言われた翌日です。2日後に開幕するフェニックス・リーグのため、他の選手と同じように1か月分の荷物を持って乗り込んだ宮崎から、わずか2泊3日で引き揚げるとは…。
「言われると思いました。まあ1軍の日程終了まではまだかなというのもあったので、ファーム日本選手権が終わってのタイミングとは…。でもいつか、フェニックス中に言われると思っていましたよ。諦めたわけじゃないですけどね。1軍に一度も上がっていないし、5年目くらいからシーズン終盤には、いつ言われてもおかしくないなと」
覚悟していたとはいえ、聞いた時にどんな思いが胸を占めたのか。西田選手が口にしたのは「クビと言われて寂しかった。もうみんなと…できひんねんな~と思って。同級生や先輩や後輩、いい仲間たちと、もう野球ができなくなるのが寂しかった」という、チームメイトへの惜別の念でした。またチームからも愛されたという証拠は先日行われたファン感謝デーで、昨年ともに盛り上げた伊藤隼選手と中谷選手がパフォーマンスの際、西田選手の名前を書いた小道具を見せて会場を沸かせたことでも表れています。
最初と最後を見守った“西田ファミリー”
私が忘れられないのは2011年12月の新入団発表会です。おそらく阪神の新入団発表会で史上最多と思われる、12人という“大家族”で出席されたこと!もちろん家族が12人なのではなく、小さい時から西田選手をまさに親戚のごとく見守ってこられた皆さんで、ことしのセンバツ高校野球で選手宣誓をした瀬戸内高校・新保利於選手のご一家もそうです。
あれから7年後の2018年11月13日。西田選手が阪神のユニホームを着て立つ最後の打席を見ようと、新入団発表会を上回る方々がタマホームスタジアム筑後の『12球団合同トライアウト』に駆けつけました。父・正哉さん、母・芽生さん、姉・侑香さんをはじめ、高校のチームメイト、親戚同様の新保家も含めて総勢15人以上だったとか。
また入団以来ずっと西田選手を応援してこられた森本ファミリーももちろん参戦です。そして阪神ファーム担当時代、鳴尾浜でいつも西田選手のロングティーに付き合って下さったMIZUNOの中元翔さんの姿もありました。わざわざ休みを取って見に来られた中元さんは、帰りの新幹線で涙をこらえるのが大変だったそうです。いろいろと思い出されたんでしょうね。こんなことも。→<姫路で初の広島戦、秋山が好投して西田は今季1号を放つも敗戦>
とはいえ、試合をして勝ったわけではないのに皆さんがとても晴れやかな顔で帰られたのが印象に残っています。西田選手もしかり。そんな合同トライアウトの打席内容を書いておきましょう。【 】内は対戦投手で、★は結果。カウントは1-1からスタートです。
【楽天・横山投手】
ストライク(136キロ)
ボール(136キロ)
★右中間二塁打(144キロ) フェンス直撃!
【元巨人・渡辺投手】
空振り(123キロ)
ファウル(133キロ)
ボール(126キロ)
★空振り三振(125キロ)
【中日・若松投手】
空振り(116キロ)
★中飛(110キロ)
【ソフトバンク・伊藤投手】
ボール(141キロ)
★遊飛(137キロ) ※今成選手が捕球
みんなに見せたかったヒット
1打席目が終わったあと、グラウンドに出てきた西田選手はカメラマン席近くまで来て「奇跡、奇跡」と小さな声で言います。二塁打が奇跡ってこと?(笑)。またサード、ファースト、最後はショートの守備も。終盤は西岡選手、今成選手と3人でセカンド、ショート、サードを守っている時間が結構あって、ファンの方々には嬉しい光景だったでしょう。
ではトライアウト終了直後に聞いたコメントをご紹介します。
二塁打は奇跡?「奇跡じゃないって言っときます(笑)」。手応えがあった?「絶対に緊張するやろなあと思っていました。いつもと違う雰囲気だったし、何とも言えない感じで。地面に足がついているのかなあとか、ちょっと浮ついていたんですけど、1打席目でああいうヒットが打ててよかったです」
それから「本当に今まで応援してくれていた人が、両親も含めて、友だちや知り合いが来てくれたし。みんなから『結果はどうでもいいから元気な姿を見せてくれ』と言われて、でも自分の中ではどうせやるなら絶対打ちたいと思っていたので、1本でしたけど、みんなの前で打ててよかったです」と続けました。
最後まで守備についていたのは志願?「いや、どうですかね。野手は帰らんといてくれって言われたので。最後はショートしか空いていなかった(笑)」。阪神の3人で申し合わせて守っていたのかと思いました。ファンの皆さんは嬉しかったと思いますよ。「そうですね。剛さんと一緒にできたし」
再度、1本出てよかったですねと言ったら「ほんまっすねえ。シートバッティングが始まって最初の、ちゃんとしたヒットやったでしょ?みんなまだ打っていなかったから」とニヤリ。そうそう、だから印象に残りましたよ。ただ、このトライアウト受験に際しては相当な葛藤がありました。それはのちほどご紹介します。その前に、思い出話を。
自分に責任を持ち、納得できた1年
プロ7年を振り返って「高校の時みたいに“楽しく”はできないので。すごい選手やテレビで見た選手もいて、野球がおもしろいとは思ったけど楽しくはなかった。僕がずっとニコニコしているので、見ていたら楽しそうだと言われるんですけど。でも、おもしろかったです!いろんな選手にバッティングのことを聞いたり、守備を教えてもらったり。思った通りにできないことも、こうやりたいのにできないってことも含めて、おもしろかった」
それが今季、少し変化したと振り返ります。「矢野さんになって初めて、楽しいと感じました。メッチャよかったです。最後の1年はおもしろくて楽しかった!それは勝ったから、優勝したからかもしれないけど」。リーグ優勝とファーム日本一は嬉しかった?「嬉しい!メッチャ嬉しいです」
矢野監督はとにかく自分の考えを伝える前に、選手がどうかを個々に問う姿勢を貫きました。「今どんな状態か」「どうしたいか」「どう思ってプレーしたか」などです。それは西田選手にも「聞かれるということは、答えられるようにしないといけない。何も考えていなかったら答えられないので、ひとつひとつ準備して自分が考えてやらないといけない。そうやって考えてやったプレーは、結果に自信が持てる」という影響を与えました。
「やれと言われたプレーだと結果になかなか自信は持てないけど、みんな納得したプレーが多かったと思います」。だから楽しかったんでしょうね。「やらされて終わった1年だったら納得できていないかもしれない。そのへんでも矢野さんはメチャクチャよかったです」
印象に残っていることを聞くと「狩野さんの引退試合ですかね。最後のレフト線へのツーベースヒットは今も覚えています。狩野さんも育成を経験していて、僕が育成になった時も声をかけてくれました。自主トレも2年、一緒にやらせてもらったから引退してしまうのが寂しかった。だから狩野さんが二塁打を打った瞬間メチャクチャうれしくて」という返事。自身が1軍の試合に出たことは思い出ではないと言います。
とても濃かった今岡コーチとの時間
思い出はもうひとつ。「今岡さん(2016~17年に阪神2軍コーチ、2018年はロッテのファーム監督)に教えてもらったことも忘れられないですね。僕が4年目の秋から2年間、メチャクチャ濃かった。打球が飛ぶようになったり、試合である程度打てるようになった。数字は残せていないけど、自分の中で感覚が違っていました」
今岡さんとの2ショットが撮れていなくて残念。でも一緒にいる時間は多かったですね。「そんな個別に指導してもらえる選手じゃなかったんですけど、今岡さんがロングティーを見てくださったり、グラウンドから引き揚げてきた時に『来い』って室内へ呼んでもらったり」
最初はどうだったんですか?「秋季キャンプで会った時は全然しゃべれなくて…怖いな~と思っていました(笑)。テレビで見ていたすごい人やし、口数が少ないし。雰囲気も独特でしょ?でも2月のキャンプで、何か聞かないと損やな、そうでないと教えてもらえないなと思ったんですよ。自分から話しかけたらいけるかも、と思って」。チャレンジした?「いきました!自分から」
聞いたのは?「バッティングのこと。タイミングの取り方とかです。それにキャンプ中は夜間練習でも投げてもらって、それから1年間ずっと。翌年、育成になってからもずっと見てくださいました。この2年間が本当に濃かった」。そんな2016年に、こんな出来事も。→<西田直斗選手がプロ3本目の満塁ホームラン!しかし9回に悪夢が…>
今岡さんに今回のことは連絡したかと尋ねたら「しました。どうするか教えてくれよって言われました。宮崎では会えなかったんです。フェニックスの2日目がロッテ戦やったんですけど、僕は帰ってしまったので」とのこと。どういう結論を出すにしろ、その2年間はずっと残りますね。西田選手も誰かの“今岡さん”になってください。
心残りなのは?「1軍で活躍したかった。鳴尾浜にしかいなかったのに、応援してくれる人がいっぱいいたことがわかったし、親も友だちも(僕が)1軍で活躍したら、もっと自慢できたやろなあと。それを見せたかった。心残りはそれしかないですね」
社会人で頂点に立った幼なじみ
ところで、トライアウトの前に西田選手とは『社会人野球日本選手権』(京セラドーム大阪)で会ったんですよね。たまたま同じ試合を見ていたという偶然で。西田選手が応援していたのは三菱重工名古屋で、ファーム日本選手権前の10月3日に鳴尾浜で練習試合をして8対2で阪神が負けた相手。そこに「小学校から一緒のチームだった同級生」の4番・西田尚寛(なおひろ)内野手がいます。この西田選手も“ニシ”とか“ナオ”と呼ばれているみたいで…ややこしいですね。
阪神の方は直斗選手、三菱の方は尚寛選手と書きましょうか。尚寛選手は鳴尾浜で会った際に私と「直斗の足が速かったって話をした」ことを覚えていました。小学校時代の直斗選手がどうだったかという問いに「小学校の時からすごかったです!」と尚寛選手が答えてくれたもの。どの部分が一番?走るのも?と聞いたら「足も速かったですよ」と真顔で返事が。派手に驚いてしまって、すみません。
「本当にすべてがすごかった。だから一緒に野球をやりたいと思った」と尚寛選手。やがて直斗選手は大阪桐蔭へ、尚寛選手は東大阪大柏原へ進み、あの2011年夏(大阪大会決勝で大阪桐蔭にサヨナラ勝ちして甲子園初出場決定)があったのですね。尚寛選手は関西大学を経て三菱重工名古屋に入った今も、今までで一番思い出に残る試合としてプロフィールに書いています。
そういえば日本ハム時代の石川慎吾選手(現巨人)に直斗選手のことを聞いた際も、やはり「大阪大会決勝で戦ったことが2人にとって最大の思い出」と語ってくれました。その石川選手と直斗選手は、10月6日のファーム日本選手権(宮崎)で対戦。今度は直斗選手の阪神が勝ったわけですね。
再び尚寛選手の話に戻ります。「もう辞めるかもって連絡したら、あいつは『もう一回、野球をやりたいと思わせるように頑張るから』って言ったんですよ」と直斗選手。「そしたら優勝して」。そう、三菱重工名古屋は見事に初優勝!有言実行の幼なじみですねえ。「社会人野球に興味がなかったけど、一回負けたら終わりというのはプロに入って一度もないので。みんな頑張ってるのを見て正直いいなと思いました。楽しそうやなと」
受けるか?受けないか?葛藤の日々
さて、最後はトライアウト受験に関する紆余曲折です。新聞の記事にもあった通り「クビと言われても、トライアウトは受けんとこうと思っていました。そこは潔くというか、阪神をクビと言われたらパッとやめようと思っていたんですよ。社会人や独立リーグというのは考えていなかった」という西田選手。
「小学校から夢だったプロ野球選手になれて、それが終わることになったら、自分の興味ある仕事を見つけてやりたいなと思って。野球はずっと続けてきたので、他に何か。だから受けんとこうと思ったんです」
しかし「親には(戦力外を)報告して、トライアウトを受けんと言ったらメッチャ寂しそうな顔されましたね。そこで折れたくはなかったけど、『野球を続けてほしい、トライアウトも経験やから』と言われたんですよ。でも僕は違うことを頑張りたいって、お姉ちゃんとも言い合いになったり…。ちょっと考える時間を作りました」。とても仲のいい西田家だけに、これは一大事だったはず。解決の糸口は先輩の言葉でした。
説得してくれた先輩のひとこと
中学時代に所属していた八尾フレンズ(大阪八尾ボーイズ)で、西田選手が兄のように慕っていた先輩がいて、その後も何かあったら必ず相談していたし、いつも試合を見に来てくれたそうです。自分の決心と家族の思いに挟まれて、身動きが取れなかった今回も、その先輩に話を聞いてもらったとのこと。
「そしたら、言われたんです。『お父さんやお母さんの気持ちを考えると、受けてみるのもいいんちゃうか?お前が受けることによって、お父さんもチーム(コーチをしている大阪八尾ボーイズ)のみんなに、あきらめんと最後までやったと言える。もうプロの球を打つことも、阪神のユニホームを着て打席に立つこともないかもしれない。最後にみんなに見てもらったら?』って」
これは西田選手の気持ちをかなり揺さぶったと思われます。「トライアウトを受けなくて、来年とか何年か後とか、みんなでご飯を食べに行って『受けたらよかったのに』と言われたりするのも…と思ったし、受けない後悔はしたくなかった」。そうですね。やらなかった後悔はいつまでも残るものです。
そして「ことしは、できるだけ友だちにも試合を見に来てもらったりしていたんですけど、トライアウトを受けると連絡したら、みんな『行くわ』って言ってくれて。宮崎でのファーム日本選手権はみんなに見てもらえていないし、今後(野球を)やるやらないは関係なく、トライアウトで最後を…という気持ちになりました」と西田選手。
「忘れられないトライアウトになった」
迷って悩んで、自分のためというより支えてくださった方々の思いに応えるため、トライアウト受験を決意。タマスタ筑後に駆けつけてくださった“応援団”の前で、しっかり二塁打を放ちました。皆さんが夕方まで待って、すべてを終えて引き揚げる西田選手を見送ってくださったのは言うまでもありません。
「お父さんが(病気で)倒れてから忙しくなって、お母さんはあんまり見られなくなったので、球場に来ることも久しぶりだったんですよ。今は受けてほんまによかったと思います。あれだけ悩んでいたけど、それだけに忘れられないトライアウトになりましたね。みんなの前で1本打ててよかった。受けてよかったです。メッチャよかった」
当日の夜、私にもメールをくださったお父さん。そこには「ありがとうございました。直斗に最後まで楽しませてもらいました。辛いこともあったけど、ファンの方ともたくさん知り合えて、きょうも大勢の方が応援に来てくださって、息子ながらすごく立派に思いました。これからもよろしくお願いします」と書かれていました。こちらこそよろしくお願いします!お父さんも、ひとつ区切りをつけられたんでしょうね。
今後については、いくつか連絡ももらったようですが、まだ決めていません。でも「やりたいことがある」と西田選手は言います。「野球を続けていくのもすごいことやけど、違う仕事で成功するのもすごいって思う」と、目をキラキラ輝かせる25歳の青年がそこにいました。どちらの“すごい”を選ぶのか、皆さんとともに見守っていきたいと思います。
※西田選手の特集記事、2015年と2017年のものです。併せてご覧ください。
<阪神タイガースの西田直斗選手が、6月19日に支配下選手へ復帰します!>
<掲載写真は注釈のあるもの以外、筆者撮影>