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北庄城落城す!柴田勝家とお市の方の潔かった最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北ノ庄城址の柴田公園の柴田勝家像。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、柴田勝家が北庄城で自害して果てた。勝家の無念の最期がどのようなものだったのか、検討することにしよう。

 天正11年(1583)4月20日から翌21日にかけて、柴田勝家と羽柴秀吉は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で雌雄を決した。結局、勝家は秀吉の尋常ならざる行軍スピード、盟友だった前田利家の裏切りもあり、敗北を喫してしまった。

 戦後、勝家は北庄城(福井市)に逃亡したが、秀吉は決して追撃の手を緩めなかった。『柴田退治記』によると、勝家方の前田利家、徳山五兵衛尉らの諸将が秀吉に降参したので、秀吉は勝家の討伐を最優先し、2人の帰参を許したのである。

 同年4月23日、秀吉は数万の軍勢を率いて北庄城に押し寄せた。籠城側は3千余の兵が入っていたが、すでに勝家の敗勢は濃かった。勝家は天守に入ると、股肱の臣など上下を問わず、酒宴遊興に及んだといわれている。死を覚悟した勝家は、最後の宴を催したのである。

 その後、勝家と妻のお市は辞世を詠むと、自害して果てた。まず勝家は妻らを刺し殺すと、自らも十文字に腹を切って五臓六腑を掻き出し、家臣によって介錯された。残った股肱の臣の80余人も、勝家のあとを追って自害したのである。

 北庄城が落ちたのは、同年4月24日申の刻(午後4時の前後1時間)だった。有名な浅井三姉妹(茶々、初、江)は焼け落ちる北庄城から脱出し、秀吉(あるいは信雄)に保護されたという。その後、三姉妹を保護した人物については、諸説ある。

 同年に比定される4月24日付の秀吉書状(吉村又四郎宛)によると、4月23日に秀吉軍は天守の土居まで攻め込み、勝家の首を切り落としたという(「赤木文明堂文書」)。そして、越前だけではなく、加賀、能登をも平定したと述べる。勝家は自害したのであって、秀吉が首を切ったのではない。この辺りは誇張だろう。

 しかし、秀吉が小早川隆景らに宛てた書状には、加賀、能登だけでなく越中を加えており、その後は金沢に至って、5月10日には上洛すると書いている(「小早川家文書」)。隆景宛の書状は4月25日なのであるが、あえて自身の威勢を見せつけようとして、越中も加えたのだろうか。

 ともあれ、秀吉は最大のライバルである勝家を討ったので、織田家中における地位はますます上昇した。ただし、織田信雄や徳川家康は、秀吉に脅威を感じたはずで、その後、両者の対立も激化していったのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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