地獄の沙汰も金次第、近世の島流し
流刑は罪人を辺境や離島に送る刑罰であり、近代に入るまではポピュラーな刑罰でした。
そんな流刑ですが、罪人が流刑先でどのような生活を送っていたのかについてはあまり語られていません。
この記事では中世の島流し先の生活について紹介していきます。
地獄の沙汰も金次第だった江戸時代の島流し
江戸時代といえば、慶長五年の関ヶ原の戦いから始まる徳川家康の時代。
豊臣氏の衰退と共に、徳川氏が力を持ち始め、天下の安定が見えてきた頃の話です。
この時代、特に徳川幕府の治世においては、古代や中世とは異なり、流刑の適用が広く行われ、遠島(えんとう)という形で罪人たちは日本各地の島々に送られました。
特に、八丈島や三宅島など、関東近辺の島々が流刑地として用いられることが多かったのです。
さて、徳川時代の流刑について語る前に、まずは徳川家康の政治家としての側面に触れておきます。
彼は、戦乱の時代を終わらせた名君であり、大阪落城の一件を除けば、非常に寛大な処罰を行っていたとも言われます。
流刑においても、その傾向が見られ、罪人たちは流された先で一定の生活を営むことが許されていました。
島に着いた者たちは、漁業を行うことや、農業を営むことができ、必ずしも過酷な監禁生活ではなかったようです。
ただし、もしも「島抜け」を行った場合、その罪は重く、捕まれば即座に斬罪に処せられました。
江戸時代の遠島に処せられる罪には様々なものがありましたが、賭博や宗教的な問題が大きな理由となることが多かったです。
特に賭博については、一度や二度であれば許されるものの、繰り返し行った者は遠島にされました。
また、日蓮宗の一派で「不受不施(ふじゅふせ)」と呼ばれる、物を施さず受け取らないという教えを広めた者たちも、思想犯として遠島にされたのです。
加えて、窃盗や詐欺といった犯罪ではなく、殺人や重傷を負わせた者、または宗教的な逸脱行為に対して流刑が適用されました。
例えば、松平忠輝や有馬晴信など、関ヶ原の戦いや大阪の陣での敗北、あるいはキリシタン弾圧に関連して、多くの大名が流刑に処されました。
有馬晴信は、キリシタンの取り締まりに失敗し、徳川家の命令によって流されたのです。
また、徳川家康の息子である松平忠輝は、大阪の陣での行動が原因で流され、伊勢朝熊(いせあさくま)に幽閉されました。
このように、徳川家は流刑という形で罪人を遠くへ追いやり、処罰を与えることが多かったのです。
徳川時代における流刑は、ただ単に罪人を追放するだけでなく、幕府の細やかな規定に基づいていました。
流人は出発前に「遠島部屋」と呼ばれる牢屋に入れられ、流刑地まで護送される際には、家族や友人から「屈物(くつぶつ)」という生活物資を受け取ることができました。
幕府からも一定の支援があり、流刑に処された者でも最低限の生活を保障されていたのです。
流刑者には、米や銭が支給され、島に到着後はその地で生活を始めることができました。
金銭や物資を持たない者に対しても、幕府が支援を行うことで、流刑生活が厳しすぎないように配慮されていたのです。
さらに、徳川時代の流刑に関する面白い逸話があります。
四代将軍家綱がまだ幼少の頃、流刑の話を聞いて「流刑とは命を助けるためにあるはずなのに、なぜ食物を与えないのか?」と問いただしたことがあったと言います。
これを聞いた家光は、「竹千代(家綱)は良いことを言った。食物を与えないのは間違っている」とし、それ以降、幕府は流刑者に食物を与えることを義務付けたというのです。
こうした人情味溢れる逸話も、徳川時代の流刑が単なる罰以上のものとして機能していたことを示しています。
一方で、流刑に処された者が必ずしもその先で無事に暮らせたわけではありません。
流刑地では、「地獄の沙汰も金次第」という諺が示すように、金のある者は優遇され、幅を利かせることができました。
井上正鐵(いのうえしょうてつ)の『井上正鐵翁在島記』によると、流刑地でも金の力は絶大で、資産を持つ者は流人仲間との交流や生活環境の改善を図ることができたようです。
また、歴史的に著名な人物が流刑に処された例も少なくありません。
たとえば、関ヶ原で敗北した宇喜多秀家は、八丈島に流され、その後生涯をそこで過ごしました。
その他にも、広島の大名であった福島正則(ふくしままさのり)や、本多正純(ほんだまさずみ)などが流刑に処され、それぞれが異なる運命をたどったのです。
福島正則は、大阪の陣後の処遇に悩み、最終的には幕府に従って川中島に流されました。
本多正純は、いわゆる「宇都宮城釣天井事件」に関連して出羽国に流されましたが、晩年は非常に厳しい生活を強いられたのです。
このように、江戸時代の流刑は、厳しい政治の中でも一定の人道的配慮がされており、罪人たちは罪を償いつつも新たな生活を築くことができる機会が与えられていました。
しかし、時には政治的陰謀や失敗が流刑の理由となり、罪人たちの運命が大きく左右されることもあったのです。
参考
小山松吉(1930)「我國に於ける流刑に就て」早稲田法学 10 p.1-37